「修煉する人は得ることになり」を自ら体験する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年5月4日】師父は「修煉する人は得ることになり、修煉しない人は得られず、誰も他人の代わりに修煉することができません」[1]と説かれました。

 私は大法を修煉して20年になります。数多くの大法の不思議さを体験しました。

 昨年12月、右側の顔が痙攣(けいれん)し、以前も何回かありましたが、真に内に向けて探すことができなかったため、再び症状が現れました。ご飯を食べるのも困難で、夜も眠れませんでした。5分ごとに一回電気が走ったように痙攣する、三叉神経痛のようなものです。

 私は師父と大法を信じて、旧勢力の按排を一切認めず、大法の要求で自分を律し、遭遇する如何なることをもいいことと見なしていますと、1カ月も経たないうちに治りました。現在正常に戻り、慈悲なる師父に感謝いたします。                                              私は1996年に法を得ました。ある機会に、師父の説法ビデオを拝見して、人が多かったので、ぎりぎり聞こえましたが、聞けば聞くほど聞きたくなりました。しかし、九講を全部聞き終えていないうちに、旅行に出かけました。旅行先のある一日のスケジュールは、山登りをすることになっていました。しかし、山の山腹に登ると、半分以上の人が疲れてやめましたが、私は最後まで登りました。山頂に到達すると、1人の男性に「おばさん、よく登ってこられましたね」と言われたのを聞き、よくもまあここまで、登ってこれたものだと思いました。その頃、私は五十数歳でしたが、毎日午後になると、脚が腫れてきて、重くなりました。山頂まで楽に登れたのはどういうことなのか? と夜休む時に考えてみると、師父が私を弟子としてみなされ、体を浄化してくださったのだと分かりました。

 私は近視でした。修煉して間もない頃、集団学法に参加した時、同修に「すでに大法を修煉しているのに、まだ眼鏡をかける必要があるのですか」と言われ、翌日から眼鏡を外しました。最初は少し不便でしたが、だんだんと慣れてきました。現在老眼もないし、耳も遠くありません。団地で新聞や広告を読むと、団地内の人に「その年でまだ見えるのですか?」と聞かれたので、私は「見えますよ。タイトルの大文字だけではなく、小さな文字まではっきりと見えます」と答えました。

 法を得た当初、同修の息子がプラスチックパッケージした師父の写真を拾ってきたので、私はそれをもらって、壁にかけました。とても不思議なのは、自分の行いが大法に符合した時、写真の中の師父は喜び、微笑んでおられますが、大法に符合しない時は、怒っているような顔をされます。ある日、買い物をした時、10元の偽紙幣をもらいました。自分は使いたくないので、使いたい人が使えばいいと思って、サイドテーブルに置いておくと、家族の誰かが持って行って使いました。師父の写真を見ると、師父は怒った顔をされていました。その夜、自分が汚いトイレの中に落ちた夢を見ました。やはり修煉する人は、些細な事でも自分の行いに気を付け、自分を律しなければいけないのだと思いました。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『各地での説法八』「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/23/327018.html )
 
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