心を静めて学法しているときに見えた光景
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文/中国の大法弟子 含笑

明慧日本20166月13日】師父は説法の中で、再三、弟子たちに法を多く勉強するようにと説かれました。19997.20前、師父は「皆さんに教えますが、本を多く読み、多く読み、多く読み、必ず本を多く読んでください」[1]とおっしゃいました。19997.20後、師父は「私は皆さんに法を多く勉強しなさい、法を勉強しなさい、法を勉強しなさいと言っていますが」[2]説かれています。師父は私たちに本を読み、法を勉強するように繰り返し繰り返しおっしゃいました。私たちは真に心を静めて、法を勉強しなければなりません。

学法のとき、真に心を静めて法を勉強することは、とても素晴らしい事です。私には数回のとても素晴らしい体験があります。

ある日、法を勉強しているとき、一つ一つの文字がみな神様であることが分かりました。さらに拝読していくと、部首もみな神様で、神様たちは法器をもっていて、形がそれぞれ異なっています。さらに勉強し続けると、一つ一つの字画はみな神様で、さらに拝読していくと、一本の横棒の字画に無数の神様たち、また一本の縦棒の字画にも無数の神様たちが見えました。ある日、法を勉強すれば勉強するほど心が静まり、1ページ、1ページ拝読していくと、数段の文字にみな佛様のお姿が現れ、その次の数段の文字にもみな道のお姿が現れました。またある日、学法しているとき、本の1ページに佛、道、神が溢れ、一層一層の佛、道、神が本当に計り知れないほど多く見えました。

時には、法を勉強していると、法輪が現れ、瞬時に大きくなり、宇宙のように広大になり、中には何でもありました。ある日学法をしていると、突然、字と字の間隔が大きく広くなりました。この字をしばらく見て、やっと読み終わり長い距離を越えて、はじめて次の文字が見えてきました。私は文字を見ているのではなく、それは一つ一つの宇宙とその宇宙の中の構造と衆生を見ているように感じました。またある日、私は一つの文字の中に壮麗な光景が、次のように見えました。高くそびえ立つ雄壮な宮殿が見えてきて、淡々として悠々自適な天女の姿が見えました。また遠くの方には、天上の果物を置いている子供たちや幅広い袖の長衣を着ている道長が見えました。そして私に拱手の礼をして、天上の果物を食べるようにと指し示しましたので、私は頭を軽く振って、念の中で彼の誘いを丁重に辞退しました。するとその後、彼はそこに坐って果物を美味しそうに味わっているのが見えました。

ある日、私は大法の本を拝読していると、徐々に全ての文字が、透明なエネルギーの集まりになりました。そのエネルギーの集まりは帯のようになり、きらきらと輝いて私の目を潤(うるお)し、気持ちがとてもよいと感じました。私の目はエネルギーの帯に従って移動し、この帯がきらきら光る小川のようでした。小川のそばに木があり、行脚している僧侶が、その木の上からふわりふわりと降りて来て、私に挨拶しました。それから、金色の鳳凰が小川の中から飛び出て来て、口の中で金色の簫(しょう)を吹くと、たくさんの鳥たちが先を争って飛んで来ました。また、金色の大きな翼をもつ馬は、頭を上げ胸を張って、翼を大きく羽ばたきながら飛び出て来て、私にニッコリと笑いかけました。それから、私はまた金色の象を見かけました。この象は、光り輝きとても綺麗で、図案がとても精巧で美しい絵柄の座布団を背負っていました。この象は、とても温和な優しい顔をしていて、鼻を巻き、無邪気でとてもかわいらしい象でした。私は同修にこれらの見た多くの美しい光景を話すと、同修は「あなたが見たのは、きっとあなたの天国世界の光景ですよ」と言いました。

ときには法を勉強しているとき、文字に色が現れてきました。同修たちの本を見ると、みなそれぞれ異なる色が現れてきました。今見るとこの色に見え、次に見ると他の色に変わり、一篇の中に色が5~6回も変るのが見えました。私はうれしくて、大法の中での修煉は、向上が本当に速いなあと感じました。

ある日のこと、子供と和尚が文字から出て来て、弥勒の腰を伸ばす動作をしているのが見えました。その純朴さと愛らしさは、言葉ではとても言い尽くせず、長い間、私の脳裏に残っていました。また、『転法輪』の本を拝読しているとき、ニワトリの卵の殻の中に座っているようで、とても不思議な感じで、すべてが静止していると感じました。法を学んで心を静めて拝読していると、背後に神、佛、奇跡が本当に現れてきて、学法の感覚もみな違い変わりました。ある日、文字が列を組んで私の耳の中に入り、目は働かず、耳で法を勉強していました。またある日のこと、文字が手から身体に入ってきたり、文字が心の中に進入してきました。また、法を勉強しているとき、頭が空になって、頭の存在がなくなったように感じました。上述したこれらの状態は、みな『転法輪』を拝読しているときに現れたものです。

私はよく『洪吟』を拝読し、詩を読んだ後、絵も拝見します。これらの絵がほんとうにとても不思議で、時々すばらしい光景が見えました。覚者が見え、私は彼らの持っている法器の用途が分かり、数名の覚者の名前も分かりました。しかし、私はこれまでそのことを誰にも言いませんでした。ある覚者の手の中に花があり、手の中の花が咲き出し次々と色を変えていきました。ある絵の中にも花があり、私が見ていると、この花は人のように動き出して、一層の花冠を脱ぎ捨てて、名も知らない美しい花が現れ、微笑み返し、私に「まだまだ見ててね」と話しかけました。この花はまた花冠を脱いで、その後異なる色の花が現れ、その美しさで私の目は眩しく感じました。34花冠を脱ぎ捨てた後に天国が見えてきて、それをじっと見ていると、とても楽しく愉快でした。落着いて考えてみると、1粒の砂の中に三千大千世界があり、一つの花から天国が見えました。これらのすべては本当に不思議で素晴らしいものでした。

また『洪吟二』の絵に描かれている覚者は、私が正念を発しているとき、彼女たちも悪を滅しているのが見えました。また悪を滅している孫悟空もよく見かけました。

ある日、『洪吟三』の絵を見ていたところ、覚者が隠れて見えなくなり、一つの大きな金色の蓮の花が現れました。その後、この金色の蓮の花は、万個の小さな金色の蓮の花に変わり、驚くほど速いスピードで外へ飛んでいき、瞬く間に姿が見えなくなりました。きらきらしている光芒の中に、佛国の殿堂が遠くから目の前に現われ、その美しさは、本当に言葉では言い尽くせません。私は天山を流れている渓流の中に、時々水面を跳ね出している金色の魚が見え、天の池の中に静かに咲いている金色の蓮の花が見え、天柱に顕われたり隠れたりしている天龍が見え、天空の中を回転しながら飛んでいる大小の法輪が見え、楽器を奏でている美しい天女の姿などが見えました。そして、重々しく威厳のある玉座が見えてきました。玉座には誰もおらず空席で、玉座を取り囲んでいる護法の者は炯々(訳注:けいけいとは、鋭い射るような眼差し )な眼光の眼差しで私を見つめ、その目はなぜか期待で溢れていました。その中の1人が私に「我々はあなたをかなり前から、ずっとここでお待ちしています」と一念が出たのを感じて、私は心が非常に震え、急に涙がボロボロと溢れてきました。

毎回『洪吟三』の仙人や仙女が楽器を奏でているのが見え、私はその美しい音色を耳にし、楽器から出た正のエネルギーが、世の中の汚れを洗い流しているのが見えました。『洪吟三』の中にいる神仙は皆、宝物を手に載せており、そばに仙鶴もおり、仙鶴は、いつも私に挨拶してくれました。たくさんの光景は、他の空間の素晴らしさと莊厳さを現していました。

『洪吟四』が発表された後、慈悲深く偉大な師父は、弟子に大法の不思議さをまた体験させて下さいました。ある日、『洪吟四』の一幅一幅の絵の人物がみなメロディーの中にあり、1人で出演しているのではなく、多くの人が出演していて、着ている衣装は彩(いろど)りが豊かで鮮やかであり、舞姿はしなやかで美しく、舞台の公演を見ているようでした。役者の後ろで際立っていたのは、天国世界の美しい景色でした。私は涙が溢れ、心の中で何度も何度も「師父、ありがとうございます」と申し上げました。私が師父の神韻舞踊班への詩を拝読しているとき、目の前にこれらの同修が現れました。彼たち、彼女たちの清純な笑顔は、黄金よりも貴重なものです。絵画のない歌詞を見ていると、歌詞の後ろにひとりの偉大な神がお立ちになり、声高らかに歌っておられるのが見えました。

私はここまで書き進んだとき、涙が抑えきれず、心の中で師父に感謝を申し上げ、弟子として、精進し、さらに精進し邁進することこそ、はじめて師父のご加護や保護下さっていることに、また、師父の慈悲深い済度や御恩に少しでも報いることになると強く思いました。

他の説法を拝読したとき、国内外の同修たちが見え、師父の挨拶の言葉の中にあったたくさんの地名が見えました。私が真面目に読んでいると、まず同修たちの姿が見え、さらに見ると、同修たちは東方の神の姿をしていたり、また各民族の神の姿でした。国外の地名を読むと、それはまた同修が西方の神の姿であったり、イエス、聖母マリアのような身なりをしていて、光芒を放ち、一部の神には翼があるのが見えました。

偉大な師父は、この上なく貴重で無比な大法を弟子たちに修煉するようにお与えになり、弟子たちに天上に昇る一本の道をお敷きになりました。私たちはこの万古の機縁の大法書籍を、大切にしなければなりません。大法弟子として、学法のとき、必ず心に入れて、しっかりと拝読しなければなりません。法を勉強しているとき、気が散ったり、居眠りをしたり、本をきちんと持たなかった同修は、天上にほんとうに神がおられ、あなたの学法の状態が記録されています。これらのことは、一つの小さな問題ではありません

師父が私たちに教えておられるのは、「ご存知のように、どのような心理状態で法を読めば、法理を読み取ることができるのでしょうか? これは、私が言わなくても皆さんが分かっていることです。目は法を見ていても、考えが法の上に無ければ、皆さん考えてみてください、それは読んでも無駄ではありませんか? 誰のために読むのでしょうか? 自分は学んでいないでしょう? 本当に自分自身が功を得るようにと私は皆さんに教えたのではありませんか? もし法を学ぶときに考えが法になければ、誰のために法を学ぶのでしょうか? 皆さんを咎めているのではなく、このことが非常に重要だと皆さんに教えています。ですから、いくら忙しくても、法を学ぶときには、如何なる考えも放下し、他に何も考えずにただ法を学ぶべきです。あなたが法を学んでいる中で、考えている問題が全部解決されたかもしれません。なぜなら、全ての字の背後に皆佛道神がいて、あなたが何を解決しようとしているのか、今何を急いでやろうとしているのか、彼らには分からないことがあり得るでしょうか? それなら、彼らはあなたに教えないのでしょうか? ただし、必ず求める心を抱かずに法を学ばなければなりません。皆さんはとっくにこのことが分かっています。問題を解決しようとする執着の心を抱いて法を学んではならず、落ち着いて読めば、修めた効果はきっと非常に素晴らしいものです。ですから、法を学ぶ際、形式に拘らず、必ず心を放下して読み、本当に学び、心がここにあらずとなってはいけません。注意力が分散してしまえば、無駄になります。 他の面から言えば、もし法を学ぶときに思いが法になければ、一つの形式の問題であるだけではなく、実は法を学ぶ者が法に対しても尊敬していないことになり、それで法が表れてくることがあるのでしょうか? この点から言えば、私が思うには、必ず心を放下して法を学び、注意すべきは忙しい情況でも法を学ぶときには考えを落ち着かせることです」。[3]

師父は「法を学ぶときには考えを落ち着かせることです」[3]と教えてくださいました。煉功点で法を勉強するとき、学法を形式としていて、心を法に置いていない同修、法を拝読するスピードが速い同修、家の事を考えている同修、市場に買い物に行きたい同修、何の野菜を買うか、何の食事を作るかいろいろ考えている同修、学法が速く終わってほしく、やりたいことがあるからと思っている同修、ゆっくり読む同修があったら、焦って、自分は先に読んでしまう同修、他の人とのトラブルやどのように争うかを考えている同修、自分の読み方、読む音声が上手だと顕示している同修などなど、心を放下せず、心が落ち着いていない同修がいます。またこの一段落の説法は、あの同修のことを指摘しているなどと考えている同修もいます。法の勉強と修煉は、自分の内に向けて探すことで、決して他人を照らすことではありません。

同修よ、大法を大切にし、師父の教えをよく聞きよく守り、心を静めて、法を多くしっかりと勉強しましょう。

 注:
 [1]李洪志師父著作『スイス法会での説法』
 [2]李洪志師父著作『各地での説法四』・「二〇〇四年シカゴ法会での説法」
 [3]李洪志師父著作『各地での説法二』・「米国フロリダ州法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/6/1/329300.html)
 
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