長旅をしても、修煉の目的地を忘れない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年6月14日】法を実証する道のりが今日まで来て、もうすぐ終わりが来ることを、師父はすでに何度も私たちに教えられましたが、未だにそれは続いています。まだ多くの衆生が救われていないことを除き、私たち自身がまだ圓満成就のレベルに達していないことが、もう一つの重要な原因です。

 これから、最近考えたいくつかの問題を取り上げて皆さんと交流し、残された最後の時間の中で師父が私たちに説かれた「最後になればなるほど、精進すべき」[1]となれるように、真に自分自身を実修して、次元を高めていきたいと思います。

修煉は仕事ではないが、仕事は修煉の内にある

 修煉者にとって最も重要で、最も厳粛なことは「衆生を救うこと」です。しかしながら、時間があまり残されていない今、一部の修煉者は、常人社会に忙しく修煉と仕事を区別していない人が多くいます。

 「あなたの社会での仕事は修煉ではありません。しかし、あなたの修煉は社会での仕事に反映されます」[2]と師父は説法の中で何度も説かれました。修煉者は常人の仕事のほかに法を実証し、衆生を救う役目を背負っていますが、これらの具体的な仕事事態は修煉ではありません。例えば、メディア業界で我々の主な媒体は、明慧の他にも大紀元や新唐人などがありますが、明慧には明慧自身の特徴があり、他のメディア媒体とも異なっています。大紀元や新唐人はマスメディアであるので、様々な役職が生じ、そのため、我々修煉者はそれぞれの役職について、それ相応の仕事をしなければならなくなります。これらの仕事は修煉ではありませんが、このような仕事環境の中で自分自身を修め、精進することができ、また法に同化することができるので、修煉の一部とも言えます。時に私たちは、仕事と修煉の関係を区別できていないがために、実際の仕事に困難とトラブルをもたらすことがあります。

 以前にこういう言い方を聞いたことがあります。大まかな意味として「皆修煉者なので、何をするにしても法で自分自身を律すればよく、皆と同じことを自らに要求しなくてもいい」ということです。これを聞いたときは「その通りだ」と納得いきますが、良く考えてみれば、違います。仕事というものは、多くの人と協力しながらするので、当然上司と職員の上下関係が生じ、誰かが「協調人」の仕事をしなければならなくなります。確かに「修煉者1人1人が協調人」という言い方は間違いではありませんが、皆修煉している最中なので、自らの意見を重んじ、「命令される」より、他人を「協調」する役目をやりたがります。そして、意見に分かれが生じた時、上記のような言い方で言い逃れをしようとします。

 簡単に言えば、働いている時に修煉と仕事を区別していないのです。例を一つ上げましょう。テレビ局を作る場合、局長と副局長、監督、編集、営業、事務など様々な役職を必要とします。1人1人が分け与えられた仕事や役職に応じた仕事内容をしっかりとこなすことができれば、当然、会社は利益を生み出します。もし、「修煉者がやっているのだから、皆法理で物事を律すれば良い」などと誰もがこのように思っているのなら、何もできないでしょう。例えば、インタビューをやりたいから勝手にインタビューの役職に就くと、記事の編集者がいなくなり、現場で働きたいから皆現場に行くと、舞台裏が空になってしまいます。そして、誰もが局長になりたいけれど、局長は1人枠しかないなど、つまり、役職は違えど、我々はどのような仕事をしていても自らを修めることができるのです。けれども、実際の仕事に関しては皆の協力を必要とし、もちろん、役職には自然と上下が生じ、それに応じた仕事にも大変なものと楽なものが分かれてきます。このような時は、皆1人1人が自分に分け与えられた役職に相応の仕事をしっかりとこなしていけば、その項目や仕事をよりよく完成させることができるでしょう。

 実際の仕事の中で、上司がいれば当然部下がいて、管理する役目があれば、管理される役目が存在します。どのような役目を分け与えられても、自分自身が修煉者であることを忘れずに常に修煉者の基準で自らを律すれば、仕事をしている中でも修煉することができます。そして誰もがこのように自分自身を律していけば、難しいことも簡単にこなすことができるでしょう。

仕事に関して情熱はもちろんだが、専門性も不可欠である

 ここで言う専門性は「専攻」ではありません。我々ほとんどの修煉者は、自分自身の専攻や得意部門を生かした仕事をしているわけではないものの、皆しっかりとこなしています。ですので、専門的な知識を持っていればさらに相手を説得することができ、作り出したものにも魅力が生じ、衆生を救う中で自らの力をよりよく発揮することができるでしょう。

 ほとんどの場合、皆積極的に各項目に全てを注ぎ込んで働いています。本来ならとてもいいことですが、それは想像だけのもので、情熱だけでやるのはまだ足りないのです。

 さらに、ウェブページを作るならば、それに関するソフトウェアとシステムの使い方をこなすだけでなく、プログラム言語を熟知しなければならず、そしてデザイン性も問われてきます。つまり作り出したウェブページは見た目がいい上、使う人の心をひきつける必要があります。これは単に情熱とやる気だけで完成させられるものではありません。その他にも新聞を作る際、文章が書けるだけでなく、正しい言葉遣いも必要とし、その上、時事分析能力だけではなく、職業的精神など様々な能力と教養が問われます。つまり、作り出した新聞が読者の声や関心を引き起こせるかどうかが大事となり、これができなければ、法輪功が迫害されている真相を世間に伝えることも、邪悪を暴くこともできません。

 各業界には各業界のルールと基準があるので、それぞれの商売には天と地の差が存在しているのです。しかしながら、修煉者の知恵と能力は全て大法から得ており、師父が与えてくださるので、ある分野で十分なやる気と強烈な願いがあれば、「素人」から「プロ」になることもさほど困難なことではないでしょう。けれども、これと同時に修煉者自身に対する要求も高まり、そして、その能力と知恵も実修を通じて次元を高めた後にしか現れないため、ただ単に「法理で各自の言動を律すれば良い」というわけにはいかなくなるのです。

変異した心理による妨害を警戒すべし

 人心と言えば、修煉者は皆内に向けて探ることを知っていますが、「人心」もたまにずる賢いことをします。修煉者に見つかって取り除かれてしまうと察知したその「人心」は、時には隠れるし、時には別の執着心を匿います。

 例えば、我々自身の執着心が突かれた時、気持ちがすっきりしないため、良く修煉と実際の仕事を同一のものとして混ぜてしまいます。その執着心と向き合うのが怖かったり、向き合いたくなかったりする時は、無意識に自分自身に言い訳を作りたがるのです。しかし、情緒や執着心を持って仕事に取りかかった場合、思い通りにいい結果が出せなかったり、効果が悪かったりするでしょう。

 名利の心、特に常人社会の名誉や利益に対して、皆さんはっきりと認識することができるでしょう。しかし、修煉者の中で、「栄誉心」という栄誉を重んじる心理が存在しており、それも名利の心が実際的に働いているからです。常人社会のなかで、「栄誉」は積極的なもので、正を代表しており、英語語圏の中の「honor」やアジア語圏の中の「自尊心」も同様、プラスの意味を持っています。これらの語句は元々人間の正しい言動と価値観を規範し、励ますために神様が残したものでした。しかし、今日の人類社会の道徳基準が大きく滑り落ちていったため、これらの語句の正しい意味も脱落していき、極めて厳重な変異が起きたと言っても過言ではありません。我々は修煉者として、このような変異したものを基準にするのではなく、常に大法で自らを律しなければなりません。

 修煉者が何かに取り掛かる時、時々、無意識に誰が多く衆生を救っているのか、どのようなやり方が効果的なのかなど、お互いに張り合ったり、競って「見栄を張ったり」するのが見えます。パッと見れば、これは間違ってはいなく「比べて学び比べて修す」[3]のようですが、心を静めてよく考えれば、このような言動の背後には様々な人心が働いているのが見えます。

 張り合うと必ず勝負が存在し、これにより結果を追及したり、誰が多くやったのかという事に関わってきたりするので、つい陰で色々動いたり、見栄を張ったりしてしまい、例え協力しなければならない時でも、他人に超されないよう陰で動いてしまいます。皆、衆生を救ったという「功績」を争っているようで、中には「法を実証する時期が終われば、皆の前で自慢できる」と心のどこかで思っている同修もいるでしょう。

 我々がしていることの全ては、実際師父がやってくださっているということを認識しなければなりません。「法を正す時期の大法弟子」になれるだけでも、宇宙の中で最も輝かしい事なのです。法と釣り合うことなどあるはずがありません。それなのに「栄誉」を求めてどうするのですか。

 様々な項目の中にいる時、真に自分自身を大法の一部として見なし、自ら不足な部分を足していくことができれば、それは栄誉の中にいるのではないでしょうか。誰が多くやったのか、誰が何を発展させて、どれくらいの衆生を救ったのかなど、このようなものを争って一体何になるのでしょうか。

 他の同修と張り合っている時、「衆生を救うために法を実証している」というきれいな言い訳により、結果だけを追及したり、お互い競ったり、虚栄を張ったり、面子に拘ったり、名利の心や嫉妬心、その上、「党文化」など、様々な執着心が隠されてしまうのです。

 それから、一部の協調人は「めんどくさがり」、「複雑な人間関係」を解決したくないなどの心理で、同修を協調する時、トラブルを回避するような消極的な方法を取り、「自分の仕事にさえ支障が出なければ、他人の事に関しては法があるから大丈夫だ」という考え方で、トラブルを回避するような消極的な方法を取っています。このような態度で協調の仕事をしていけば、時間が経つとトラブルを起こしかねません。

 修煉者1人1人が衆生を入れられる広い心を持っていなければ、大法の項目に取り掛かる時に「自我」、つまり「私」が混ざってしまい、そして、この「私」も様々な人心の源でもあるのです。

 「私」を取り除くと言えば、一朝一夕にできるものではないと皆さんが思うでしょう。ですので、普段何をしても法で自らを律するのです。師父は昔このように説かれました、「日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。」[4]

 法を正す道のりが今日まで進んできて、我々に全て最高の物を与え、最も栄誉のあるものを与えてくださったということを、師父は今まで何度も説いておられました。問題なのは我々がそのような次元に達することができるかどうかということなのです。

 24年は人間界では長いとも短いとも言えない時間です。今日まで歩んできて、「初心を忘れずに修煉して」[5]いくことは容易なことではありません。しかしながら、進んだ道のりの長さや時間の経過にかかわることなく、ふと振り返って自分自身を見れば、いつの間にか、修煉の初心は、時間の流れと共に忘れ去られてしまったのです。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」
 [2]李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
 [3]李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」
 [4]李洪志師父の著作:『轉法輪
 [5]李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/6/2/329363.html)
 
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