上機嫌と不機嫌から悟ったもの
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年6月25日】2016年4月6日の朝、会社に出勤しましたら、会社の門が陳情に来た人達で塞がれていました。私は苛立ってきて、不機嫌になりました。「この苛立つ気持ちは一体どうして起きたのか」と自分に何の心があるのかを内に向けて探しました。

 私は日常生活で、常に気分に左右されたまま過ごし、七情六欲の中に浸かっていたことに、ふと気がつきました。知らず知らずのうちに操り人形のように「情の魔」に操られ、受動的に人間社会のすべてを感じさせられていたのです。自分中心に、私利私欲のために生きてきました。旧勢力の按排を否定すると口にしていましたが、実際は形を変えて承認していたのです。ここで、私の体得を整理して、同修の皆さんと交流したいと思います。

 内に向けて、探してみましたら、日常の私は、人に褒めてもらいたがり、私への褒め言葉を聞けば機嫌が良くなり、心地よく感じて自然と嬉しくなり、これらの褒め言葉を好むようになっていました。何か嬉しい出来事や、良い知らせがあれば、嬉しい気持ちが抑えきれず、自慢したがり、他人に言いふらしたがったのです。気分の良い時に、トラブルに遭遇すると、プレッシャーがないため、包容力のある者のように寛大な心を持って、対処することができたのです。なぜなら、迫害の事や不愉快なことがない状況に置かれていたからでした。自信に満ち溢れて、精進している状態に見えただけなのでした。

 逆に、人から気に入らない言葉や、耳障りな言葉を聞くと、気分が悪くなりました。気分が悪くなっただけでなく、さらに「なんて口下手で、不器用な人間だ」と相手を恨み、反感を抱き始め、相手を攻撃し始めました。また、物事の動向を伺いながら、発する言葉を選択し、場合によっては嘘偽りを言ってごまかす悪習を養ってしまっていたのです。自分のことを認めてくれたなら、相手のことも認めてあげる。自分の事を認めてもらえなかったのなら、相手のことも認めませんでした。或いは、表面的には相手に優しく接していましたが、心の中では相手のことを罵っていたり、相手と対立していたり、恨んだり、嫉妬したりしていました。優しい気持ちを持つことができませんでした。これはまさに口先だけの偽善的な魔の状態ではなかったのでしょうか?

  また、中国共産党政府の大法と大法弟子に対する長期に亘る迫害の下で、私は常に圧迫感に襲われ、憤懣が胸に鬱積して、憤る気持ちが抑えきれず、論争し、弁解し、甚だしきに至っては罵り返す言動にまでエスカレートしていました。さらに憎しみや、憤り、恨みが溢れ出しました。出来事に対し、正念を持って対処することが少なく、理不尽な待遇に甘んじ、耐え忍び、劣等感を覚え、恐怖心を抱くようなマイナス心理を生じていました。そして、ひねくれて、人付き合いも少なくなって、無口になり、つまらない物事ばかりこだわりました。知恵を持って、理性を持って仕事をし、生活を送ることはなおさらできなかったのでした。一旦、自分の一番に人に触れてほしくない、人に言われたくない話題を他人に触れられたら、直ぐに心のバランスが取れなくなり、我慢することを辞め、激怒し、いらだつなどの魔性が一気に湧き出てきていました。常人の中で人情や義理を重んじていた私は、いったん恥をかかされたら、一気に気分がどん底に落ちていきました。

 内に向けて探しても、これらの人心や私情の根源を見つけることができませんでした。しかし、その代わりに、様々な口実が思い浮かび、まるでなにも起こらなかったのように、問題点を探ることを棚上げにしたままごまかしていました。同じ過ちを何回も何回も繰り返して犯してしまっていたのでした。この数年、大半の時間は自分の気分に左右されたまま過ごしてきました。自分の情緒で物事の良し悪しを測っていました。好き嫌いという情を用いた修煉は形式に走った偽物の修煉ではありませんか?このような情を用いて、宇宙大法を悟ろうとすれば、正念を持った真実の行いができたのでしょうか?

 ならば、この好き嫌いの背後は一体どうなっていたのでしょうか?今日、私はようやくわかりました。それは旧勢力が三界内で按排した「情の魔」と私利私欲が自分の体内でまだ作用を発揮していた結果でした。旧勢力は常人の七情六欲(情の魔)を利用して、私の正念を妨げ、旧宇宙の私利私欲の属性を利用して、私が大法と師父を真に信じ、純粋な気持ちで三つの事をしっかり実行することを妨げていたのです。そして、私が全面的に旧勢力及び邪悪を徹底的に否定することをできなくしていたのです。

  なぜ常人は常に楽しいことや、幸せな暮らしを追い求めるのでしょうか。順風満帆に、不幸や災難に見舞わられずに生きる幻想を抱くのでしょうか。それは人間は苦痛に遭いたくなく、苦痛を耐えたくないからです。常人はトラブルの中で、苦難と不幸に直面したくなく、自我へ挑戦し、自分自身が持つ「私」の一面へ、敢て挑戦することはなおさらしたくないのです。常人は不機嫌になった時に、精神は張り詰めていて、苦痛を感じ、失望し、甚だしきは絶望的になるのです。考えの中にあるのはすべて、自分は如何に損失を受けたか、窮屈な思いをさせられたか、平等に扱われなかったかという考えばかりです。それらの考えが行動に現れると、鬱憤を晴らし、爆発する行動をとったり、制御できなくなるほどに至ります。その場合は、常人の魔性や、マイナスの一面の要素がとりわけ多いのです。

  なぜこのような事になるのでしょうか。それは「私」というものは損をしてはならない、人に指摘されてもダメという考えを持っているからです。いろんなしきたりに束縛されてもいけないのです。はっきり言いますと、それは「自分は利己的にならなければならず、自分の利益の為にこの世に存在しなければならない」という考え方です。なぜならば、旧勢力自身は利己的だからです。かつて、師父は「しかし、全ての次元の生命は皆不純であり、最後のその生命まで不純になりました。私に手伝っていると同時に、それらは自分を守るという私心を隠しており、 みな他人を変えようとしていますが、自分を変えたくありません。皆自分に触れたくなく、ひいては自分が執着して放さないものを最大限に守っています」「1]と啓示されました。

 旧勢力が全ての生命を不純にしたこの「私」という要素を人類に押し付け、更に大法の修煉者に按排したのです。「自分の為に計らぬ者は、天地の罰を受ける」という言葉は常人の座右の銘になりました。私利私欲が人類生活の原動力で、社会の秩序や、人間の生存方式になっていることに常人は察知できないのです。

 しかし、大法弟子はまさしく常人から逸脱しています。旧宇宙の「私」という属性から逸脱して「何かをするときには、まずほかの人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」[2] こうして、ようやく新宇宙に入ることができるのです。法を正す時期の大法弟子として、私のすべての向上と昇華は皆、私利私欲の陰から突き進んで来て、常人の私利私欲という殻を突破した成果なのです。一つも例外はありません。

 法を正す時期の大法弟子は真相を伝えることを通じて、衆生に大法の素晴らしさを知ってもらうと同時に、衆生を操る旧宇宙の私利私欲の属性と機制と「私」を擁護する邪悪生命を解体し、取り除くことができれば、衆生が救われることになります。実は、衆生にとって、最も大きな善な心と、最も無私で、最も貴重な一念は、即ち、望みのない迷いの中で「法輪大法は自分を救うためにある」との信念と自分の心の奥底からの「法輪大法は素晴らしい」という一念なのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『北美での巡回説法』
 [2] 李洪志师父の著作:『精進要旨』「佛性无漏」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/6/1/329454.html)
 
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