吉林省楡樹市の于春波さんが迫害の元凶の江沢民を告訴
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  【明慧日本2016年6月30日】吉林省楡樹市の于春波さんと于春海さんの兄弟は、法輪大法を学んでいるという理由で、不当労働教養をされ、苦しみを受け尽くした。2007年に、弟の于春海さんは迫害により死亡した。年は32歳だった。

  昨年6月15日、43歳になった于春波さんは最高検察院に迫害の元凶の江沢民を告訴した。江沢民が法輪功を迫害した罪を追及することを求めた。 以下は于春波さんが『刑事告訴状』の中で述べた迫害事実である。

 于春波:不当労働教養され非人道的な苦難に遭わされる

  1997年の春、私は法輪大法に出会い、人生の意義が分かった。それからは「真善忍」の基準で自分に厳しく要求し、妻と喧嘩しなくなり、人間関係もうまく対応できるようになった。普段の生活で「真善忍」を守り、しっかり行い、他人に寛容であるように心がけていた。法輪功を学ぶ前の胃病、腎臓病、痔などの病気は自然に治った。

  2000年の春、食用菌の生産基地を始め、成功した。周りの同郷の人たちも私に協力して、食用菌の生産を広めようとしていた。そんな時、江沢民の迫害政策の下で、現地の警官が私に迫害を行った。

 2000年10月末、基地現場で作業しているところへ突然警官が現れ、私を連行しようとした。同郷の人達に助けられ連行されなかったが、その結果やむを得ず路頭に迷ってしまった。食用菌生産の基地も中止した。直接の損失は数万元で、間接的にも極めて大きな損害を受けた。それ以来、ずっと苦しい経済状況に陥っている。

  2000年末、法輪功が迫害されている真相を伝えるため上京した。警官に懐柔留置場に連行され、滅多打ちにされ、自白を強いられた。ある日の朝8時、2人の警官が髪を掴んで壁に押さえつけ、電気の刑具で顔、頭、鼻に向けて暴力を振るい、地面に蹴り倒した。夜8時まで、革靴で胸、頭、顔を気が狂ったかのように蹴り続けた。私は鼻と口から血を流して、全身傷だらけになり、自立生活ができなくなった。20日後、長春北京駐在事務所に移送され、再び滅多打ちにされた。

酷刑演示:毒打
拷問の再現写真:暴力を振るわれる

  私は現地に連れ戻され、楡樹市留置所に拘禁された。留置所で滅多打ちにされ、罵られ、長時間にわたって板に座させられた。その後、2年の労働教養を科され、長春市の朝陽溝労働教養所に拘禁された。

  朝陽溝労働教養所に連行された時、目にしたのは巨額な金を使って、新しく建てられた3棟のビルだった。2001年4月5日から9日までの数日間、私を含めて400人の法輪功学習者が各種の手段で苦しめられた。5,6人の警官がスタンガンと電気棒を持って、交替で1日かけて電撃した。電気が無くなったらすぐ予備を取り出し、首、顔、口および服を脱がれた場所を電撃した。大きな革靴で蹴られて腿に瘤がいっぱいできた。1日中苦しめられ気絶した。警官に水をかけられ目が覚めて、また苦しめられ動けなくなり、全身に無傷の箇所は一つもなかった。

酷刑演示:电棍电击
拷問の再現写真:電撃

  また労役を強制させられ、毎日土を掘って運び、1分間で車を満杯にならなければならなかった。1日800車分に達し、炎天下の作業で体は虚脱状態になった。田畑で草を刈り、トウモロコシを剝き、大根を抜くなど、毎日疲れ果てて、手足がだるくなった。

  あの時、手が疥癬にかかってぼろぼろになり、うみと血がぽたぽたと滴り落ちた。仕事をする時、傷口から血が流れて、翌日にかさぶたができて、また裂けて血が流れた。毎日苦痛の中で苦しめられて、1日が1年のように長くて辛かった。朝陽溝労働教養所から生きて帰宅できたことは、まさに幸運だった。

于春海:不当労働教養され死に至った

于春海
于春海さん

  弟の于春海は1998年に法輪大法を学び始めた。誠実で善良で、心が広くて、人と争ったことがなく、平凡な田園生活を送っていた。

  2000年11月ある日の夜中、于春海は寝ている最中に警官に連行され、2年の労働教養を強いられた。教養所で、滅多打ち、体罰などの迫害を受けた。受刑者の1人が、髪をぐっと引っ張って腰をかがめるよう強要した。もう1人が于春海を思いっきり強く蹴ったため、頭が壁にぶつかって、気絶した。

酷刑演示:暴打
拷問の再現写真:殴打

  2001年4月初め、于春海は朝陽溝労働教養所の洗脳班に連行され、殴られ蹴られて、火のついたタバコを押しつけられた。24時間睡眠を許されず、長時間両足を組んだままの姿勢を強制された。ある日、受刑者に1メートル以上の板で叩かれ、臀部はぼろぼろになった。受刑者は「警官がそうさせているのだ。所長もそうさせているのだ」と憚らずに言った。

  労働教養所は建築現場の重労働を強制し、ずっと休みの時間がなく、ノルマを完成しなければ寝させなかった。しかも長期にわたり板に座る姿勢を強いられた。その上栄養失調などで、于春海は肺結核を患い、骨と皮ばかりに痩せこけて、生命の危険に晒された。最後に家族は金を使って于春海を帰宅させた。

  帰宅後、数万元の医薬費を使って治療したが効果がなく、2007年正月の21日に于春海は永遠にこの世を去った。あとに8歳と2歳の子供が残された。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/6/13/329941.html)
 
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