安逸は毒入りの美酒に勝るとも劣らない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年7月4日】師父は「しかし神から見れば、人の過度な安逸と心地よさはよいことではありません。業力を増やし、業力が積み重なってしまうことになるからです。業力を消すことができず、最後に地獄に落ち、甚だしい場合、生命は消滅される羽目になってしまいます。昔あなた方、西洋人もこの道理を知っており、年配の方もまたこの道理を理解しており、少しばかり苦しみを嘗めても悪いことではなく、苦しい環境で鍛えることはよいことだと皆分かっていました。」[1]と説かれました。

 また師父は「あなたは気持ちよく過ごしたいですが、それは修煉なのでしょうか? それで修煉できるのでしょうか? 今になってもこの観念がまだ変わっていなければ、師父である私でさえ、あなたがどのようにしたら圓満成就に向かうことができるのかが分かりません。安逸を求めたいならば、安逸を求めてください。一人の常人として安逸を求めるのであれば、師父は何も言いません。常人が安逸を求めたいことは間違いとは言えないからです。人間はこのような追求の中で生活しており、現在の人類社会はこのようになっているからです。今、常人のことについて師父は何も言いたくはありません。しかし、修煉者としてこのように問題を認識してはいけません。」[2]とも説かれました。

 法を正す時期は終わりを迎えようとしています。師父の毎回の説法は我々に正念を出させ、そして、我々に精進するように誓約を果たすようにと説かれています。安逸は人に精進する意思を失わせることができます。まるでぬるま湯でカエルを煮るかのように、少しずつ大法弟子を引き摺り下ろしていき、ようやく気づいたときには、すでに下の方まで落ちています。ですので、安逸に関して気を付けなければなりません。そして、多くの同修が長年自分自身への要求を緩めてきたため、大量の業力が積み重なり、これにより命を奪われた同修もいます。

 安逸は堕落の始まりであり、業力を増やすだけでなく、厚く積もっていけば迫害されたり、邪悟に導かれたりなどして、すべてを破滅されることになるのです。

 多くの同修は真相を伝えることを生活の一部とみなし、風雨に打たれても休もうとしません。ある日、ある高齢の同修が、法輪功が迫害されている真相を伝えに出かけようとした時、その息子が「雨が降ってるから今日はやめなよ」と止めようとしたところ「雨が降ってるから仕事を休むのか」と言い返しました。明慧ネットである文章を読みました。ある同修が住んでいる家は1DKでリビングがありません。夫が毎日テレビを見ているので、法を勉強するため、その同修は台所の狭い通路に布団を敷いて、電球に紙を被せて即席の電灯を作り、その淡い明りで法を暗記していました。このような厳しい環境の中で『轉法輪』を15回暗記したところ、75歳の彼女に月経が来たのです。その同修は朝市や孫の送り迎えのときや、親戚や友人を訪ねる時などの機会を利用して真相を伝え、三退を薦め、真相資料を配っています。

 また、ある同修は長年冷水で頭を洗い、冷めて固くなった饅頭一つとペットボトルに入れた水道水だけ持って、資料配りに出かけます。冬には、その水道水が凍って、飲めない状態になっても、その同修は何度も自らの手で温め、わずかだけ溶けた水を少しずつ飲んでいきます。普段の食事では、おかずはザーサイや漬物しかなく、滅多に料理しません。そして、節約したお金を、すべて法を実証し、衆生を救うことに費やしてきました。このような度量と威徳を持つその同修とどうして比べられるのでしょうか。

 我々は本当に自分自身に問わなければなりません。今は法を得たばかりの時のように、危険を顧みず、何の恐れもなく一生懸命に精進しているのでしょうか。上記のような厳しい環境にいるところを、想像してみてください。この2人の同修のように安逸になることなく、休むことなく、1日1日を真剣に過ごし、苦を嘗めることを恐れずに法を得たばかりの頃のように懸命に修煉することを、10何年も続けていくことができるでしょうか。その多くの答えは「いいえ」でしょう。おそらくこれこそが、千万人もの大法弟子が滑り落ちた多くの原因の一つなのかもしれません。迫害されているほとんどの同修の空間場の中に、安逸の成分があるはずです。特に迫害により亡くなった同修にもあったでしょう。

 古今東西、多くの偉人がいました。皆名利を重んじず、様々な苦難を乗り越えて、なおも自らの信念を変えず、自身を修め、道徳基準を高めていき、最後まで真理を求め続けました。しかし、今日では、このような高い人格と徳性は、尽きることのない欲求の中で消えていったのです。古人や聖人ですら貧困に安んずることができたのに、深い根基のある我々大法弟子が、物質や安逸を求め、高い生活品質を追求しているのです。ブランド物を好み、美味しい食べ物に拘り、苦を嘗めたがらず、安逸に浸っている修煉者は、すでに修煉の道から遠ざかっているということに、まだ気づいていないのです。

 また、旅行や買い物に時間をかけている同修もいます。朝の煉功を終えてすぐに二度寝をする同修もいます。そのような同修の別空間では、旧勢力がさらにその執着心や安逸を煽っているのが見えます。その他にも「常人の生活状態に合わせる」と言い訳して、肉に対して執着はないと言いながら「どこの肉がおいしいか、どこの魚がいいか」などを話している同修もいます。しかしながら、精進している大法弟子は、真相を伝えに出かける時、時間を無駄にしないため、昼ごはんは饅頭と漬物だけなのです。私も時間を節約するため、いつも素うどんを食べます。時々ご飯と漬物にしますが、もちろん家庭のある人はこのような粗末な食事をしてはいけません。全てが終わった時、最後の審判が来たとき、大法弟子1人1人が師父の前に跪いて、法を正す時期に、自分自身が心を尽くして衆生を救ったのか、全力で精進したのか、師父をだましたことはなかったのか、法を最優先にして誓約を果たしたのかなどを悔やんでいるのが見えました。その時になって、ようやく多くの時間を無駄にしたと後悔しても遅いのです。安逸を求めて、何人かの同修のある次元の身体が、地獄で消滅を待っているのも見えました。修煉とはこれほど厳粛なことなのです。

 多くの同修は口では「旧勢力を否定し、師父の弟子であり、師父が按排してくださった道だけを歩く」と言っていますが、実際の行動では旧勢力の按排に従っています。これでは師父が助けてくださるはずがありません。師父の教えを心に刻み、これ以上師父に心配をかけないよう共に精進していきましょう。すべての人心を取り除き、特に安逸心を修め 、常に法で自分自身を律し、実際行動に移すことで、ようやくこれらの執着心を取り除くことができるのです。そして圓満成就の基準に達し、共に天国に帰りましょう!

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『ヨーロッパ法会での説法』
 [2]李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/6/20/330261.html)
 
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