幸福な修煉者
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年7月28日】私は1998年に修煉を始め、10年以上もの修煉の中で、いつも師父に見守られてきました。難関を乗り越えられない時や、様々な執着や試練の中で困っている時、法を実証している最中に危険に合った時、はたまた精進せずに迫害された時でさえも師父は様々な方法で私に悟らせたり、助けてくださったり、守ってくださったりなど、常にそばにいてくださいました。今まで歩んできてこの上ない幸せを噛みしめています。文章の長さに限りがありますので、ここで一部だけ皆さんと交流し合いたいと思います。

 私は一般の子供よりも早く学校に通い始めましたが、成績がずっと上がらず、大学入試の時、人数枠が大幅に増えたにもかかわらず、極一般な大学にしか受かりませんでした。しかし就職活動が極めて厳しいなか、私は楽々と教職員の試験に受かることが出来たのです。

 以前、教職免許がない時、公務員試験を受けようと考えていました。しかしながら、公務員の競争も非常に激しく、何百人も応募する中で、わずか1人の枠しかありませんでした。多くの人は試験前から必死になって復習や準備をしていましたが、私は修煉と仕事と生活に影響を及ばさないよう皆より少し遅れて勉強を開始し、勉強時間も2時間前後に固定していました。他の人と比べて勉強時間は短いのですが、しかし、大法が知恵を開かせてくださったため、効率は非常に良く、1年目にして筆記試験に合格しました。

 筆記試験が通ったことにより、家族みんなが大喜びして、親戚や友達でさえも祝ってくれました。けれども、皆の褒め言葉によって歓喜心や顕示心理、名誉や利益を求める心など、様々な執着心が一気に湧き上がってしまい、面接の結果が心配になってきたのです。その時、面接を受ける人たちは全員訓練を受けているという情報を耳にし、家族も私に訓練の話を持ち出しました。それから私は面接の訓練を行っているスクールをあちこち探し始め、結局は遠い県のクラスで訓練を受けることになったのです。しかし、そこで授業をする教師の大半は大学を卒業したばかりの新卒で、皆理論を話すだけで、実際の訓練は一切してくれませんでした。結局は何も得られずに時間もお金も無駄にしてしまいました。焦りと心配の中、ついに面接の日が来ました。結果は不合格でした。

 それからの日々、親戚や友人の失望、修煉していない家族からの文句や責め、そして、自分自身の言動に対しての後悔により、しばらくの間は落ち込んでいました。ある日、朝起きてぼうっとしていると、師父の説法がふと頭の中で蘇ったのです。「時に、それが自分のものだと思い、他の人もあなたのものだと言ってくれても、実際はあなたのものではない場合があります。あなた は自分のものだと思い込むかも知れませんが、最後になるとあなたのものでなくなります。その点から、そのことに対してあなたが無頓着でいられるかどうかを 見ますが、無頓着でいられなければそれは執着心なので、この方法を用いて利益にこだわる心を取り除かなければならないのです。」[注1] 

 試験に落ちたのならまた受ければいい、例え仕事がなくても私にはまだ大法があります。大法と師父の加護の中にいてこそ本当に幸せであり、もし、大法を失えば、それは生命の意義を失うことと同然なのです。今までの事をよく考え直して立ち直ると、またいつもの修煉状態に戻りました。

 翌年の公務員試験に再び参加し、今回も試験の僅か1か月前から勉強を始めました。しかし前回と異なるのは、今年は家庭や仕事などの原因により復習時間がさらに減ってしまったことです。しかしながら、大法と師父の加護の下、今回は3位で筆記試験を通過しました。面接ではトップ3から1人だけを選別しますので、今回も同じような試練が訪れてきたのです。まずは家族に面接の訓練校を勧められましたが、それをきっぱりと断りました。試験の前日に、親戚が私にある知人を紹介するので、その知人をご飯に誘ってあれこれ教えてもらうようにと言われましたが、すべて妨害であると悟ったので再び断りました。ついに夫が不機嫌になり、電話で文句を言ってきたので、根気よく説得し「今日その知人の接待に忙しくすると必ず明日の試験に影響を及ぼします」と伝えました。

 そして面接日の前日の午後、1人で都会に行き、ホテルを探して部屋に入るなり、心の状態を整えようと自らの一つ一つの執着心を見つけてはそれを取り除こうと発正念し、できる限り思考が清らかの状態を保ちました。もちろんその過程はとても苦しいもので、名利などの人心に気をとられないようにしなければなりませんでした。翌朝早く起きて、タクシーで面接会場に向かいました。道中、タクシードライバーに法輪功が迫害されている真相の資料やDVDを渡したところ、タクシードライバーは喜んで受け取りました。面接開始前の待ち時間では、あれこれを話して自らの緊張をほぐす人もいれば、緊張しすぎて固まっている人もいましたが、私は絶えず頭の中の名利やその他様々なことに対する執着の念を排除していました。

 初めて面接を受けるという知人がいて、とても緊張しているように見えました。彼とは昔一緒に働いたことがあり、試験前にも何度も私に電話してきては復習範囲や準備などを聞いてきました。私は修煉者として善意をもって聞かれたことを全て教え、その上、自分が経験したことに基づいて色々とアドバイスもしました。面接前の緊張している様子を見て、私は自分が大法を修煉していてとても幸運だと感じました。結果はどうあれ、師父がそばで見守ってくださっているのです。しかし、常人である彼はこの面接に一生の幸福やすべてをかけているので、結果によっては残酷な現実と向き合わなければならなくなるのです。

 ついに結果が出ました。私は最高点でこの職務を得たのです。試験に落ちた年はちょうど道路の舗装を行っていたため、仕事に行くのに結構な距離を遠回りしなければならず、バスの乗り換えはもちろん、別のバスに乗り換える時もかなり歩くので、特に夏は非常に大変でした。私は子供もいるので、その時の通勤条件では時間的にとても無理なので、翌年に受かって良かったと思いました。

 これらの事はすでに何年も前の話ですが、良く思い出してみれば意外と細部まで覚えており、ずっと書きたいと思っていたものの、同修たちの精進や衆生を救うという趣旨に水をかけているような気がしていました。

 しかしながら、大法弟子の生活も仕事もすべて師父が見守ってくださっているので、この文章を書くことができました。衆生に大法の素晴らしさを実証することはまさに「美妙なること語を窮め尽くしても述べ難し」[注2]なのです。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2]李洪志師父の著作:『洪吟』「法輪世界」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/7/1/330280.html )
 
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