【明慧日本2016年9月3日】中国・黒竜江省ハルビン市の法輪功学習者・宋安宇さん(48歳男性)は、2002年2月、ほかの法輪功学習者の家を訪ねたとき、警官に包囲された。宋さんは連行を避けるため、5階から飛び降り、重傷を負ったにもかかわらず、連行され拷問を加えられた。そして、2003年4月、宋さんは懲役14年の重刑を下され、泰来刑務所に収容された。今年4月やっと、刑が満了になって、帰宅した。
宋さんの家族は刑務所に入れられた宋さんのことを心配し、特に母親が息子のことを思い、夜眠れないことが多く、昼に息子と同じ年の人を見ると、自分の息子のように見えるようになった。
宋さんは1994年、チチハル市で薬を売る仕事をしていたとき、法輪功に出会い学び始めた。 宋さんは小さいときから、 神話や神仙の物語の本を読むことが好きで、神様の存在を信じている。1994年、法輪功の創始者が中国大陸で最後の講習会、すなわち広州市での第五期の講習会に参加した。あれ以来、全身が軽くなり、法輪功の素晴らしさを体験した。宋さんは広州の講習会の間、巨大な法輪が広州市の上空で回っており、色どりの祥云が付き添っている光景を目の当たりにした。
しかし、1999年7月20日、江沢民が法輪功への迫害を開始した。宋さんは省政府に行き、法輪功の無実を訴えたために、ある運動場に入れられ、拘禁された。
2000年9月8日、宋さんはほかの法輪功学習者に法輪功の資料を渡したことで、民航路派出所の警官に連行された。警官は宋さんの家にある法輪功関連書籍、テープレコーダー、カセットテープ、法輪功の創始者の写真などを、押収した。派出所で宋さんは、警官に吊るし上げられて棒で叩かれたため、痛みで汗が止まらなかった。
連行された日の夜、宋さんはチチハル市第一留置場に送り込まれた。その2日後、宋さんは尋問を受け、再び2時間ほど吊るし上げられる拷問を受けた。そのため、留置場に戻された宋さんは、ご飯のお椀さえ持つことができなくなった。いまだに、宋さんは手錠が食い込んだ傷跡が残ていて、腕も自由に動かせない状態である。
宋さんはチチハル市第一留置場で2カ月ほど拘禁された後、南崗区留置場に移送され1カ月拘禁された。
2002年4月19日、宋さんは法輪功学習者・王金範さんの家に訪ね入ったばかりのところを、警官がドアを破壊する音が聞こえた。そして、警官の連行を避けるため、5階から飛び降りた宋さんは、膝蓋骨を粉砕骨折し、足の指も足の骨も何カ所が折れ、両手も負傷した。
それで、宋さんは鉄道病院に搬送され、レントゲンを取ってから、北局派出所に戻された。派出所で警官4人は宋さんの手足を押し付け、鼻に火のついたタバコを差し込んだ。同時に、もう一人の警官は、革靴で宋さんの粉砕したひざを繰り返し踏みにじりながら、「私は屠殺者だ。私は殺人犯だ」と叫んだ。宋さんは、引き裂かれるような痛みを感じたという。
拷問のイメージ絵 体に電流を流される |
その後、宋さんは鉄鋒区刑事第一中隊に搬送されたが、迫害され続けた。警官は電話の電線を宋さんの親指に巻き、電話を回し動かせ、「ぱんっぱん」という音がするとともに電流の火花が飛びちり、宋さんの体に電流を流した。それから、宋さんを鉄椅子に座らせ、両足をまっすぐ踏み台に置かせ、両手を鉄椅子の後の穴に通して、手錠をかけた。7日間、そのまま放置された宋さんは、その間、一日1回だけの食事しか与えられなかった。
その後、宋さんは泰来刑務所付属病院に連れて行かれ、手術を受けたというが、実際に粉粉になった骨を取り出しただけだった。両足のひざが切り開かれ、警官に踏みにじられた右ひざは、8号の鋼線で固定されただけで、切り口が縫われた。1カ月後、第一留置場に送られた宋さんは、留置場に入所を拒否されたが、警官は公安局局長に電話して、無理やり宋さんを留置場に入れた。
留置場で、自立生活ができない宋さんは、1日が1年のように長く感じ、介護をしてもらわないと、トイレで用が足せない辛い日々を過ごした。ある日、宋さんはひざの鋼線が出てきたので、留置場側にある車両工場病院に送られたが、何の手当もしてくれなかった。鋼線は半年くらい露出したままだった。2003年4月5日、泰来刑務所に入れられ、再び手術を受けた宋さんは、やっと鋼線が取り出された。
留置場で1年間ほど拘禁された宋さんは、鉄鋒区裁判所に14年の実刑判決を言い渡され、泰来刑務所病人監区に収容された。約4年間、宋さんはしゃがむこともできなかったという。
2010年、やっと足が少し良くなった宋さんは、警官に手足かせをつけられ、「三書」を書かされ、立たされた。そして、立っていられなかった宋さんは、石の上に座らされ、8人の受刑者により監視された。
刑務所で13年間、宋さんは心身ともに苦しめられた。
当局に14年間拘禁された宋さんは、仕事もなく、さまざまな困難に直面している。