他人の姿は鏡に映る自分そのものである
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 【明慧日本2016年10月1日】同修である娘と一緒に学法に行くことにしました。出かける日の朝、娘はぐずぐずしてなかなか起きてきません。私は何度も娘を起こしに行きました。娘の身支度が終った頃にはもう出かける時間で、朝食をとる時間がなくなり、結局移動中に朝食をとることにしました。

 バス停までまだかなり離れていて、娘は靴が合わないと言い出し、私の後ろからのろのろと付いて歩き始めました。バス停に近づいた時に、丁度一台のバスが到着しました。後ろを振り向くと、娘はまだ遠くにいて待つしかありません。そのバスを見送って、次のバスが来るまでしばらく待ちました。

 道中、娘との会話はなく、娘が何を考えているのか分かりませんが、責めないように自分の気持ちを抑えました。不満な態度を見せないものの、腹の中は煮えくりかえっていました。その時、「娘を待つことで、自分まで時間を無駄にすることは出来ないので、次の学法は予め、出発時刻を告げ、時間になったら、娘をおいてでも、学法に間に合うように出かけよう」と思いました。しかし、このようにすると娘は学法に来なくなる可能性が出てきます。自分は娘に対して執着しすぎているのではないかと自問自答しました。すると、私に私心があり辛抱強さも足りず、メンツを重んじる心があることに気づきました。なぜなら学法の部屋に入る時、同修たちは皆すでに着席しており、娘と遅れて行くと注目されるので、それを気にし、気まずく感じるからです。このような意識は法理に符合せず、私には慈悲心が足りないようです。もっと辛抱強く、もっと寛容な心を修めなければならず、娘のことを諦めてはいけません。自分の娘だから諦めないのではなく、師父の肉親であり、1人の修煉者でもあるから諦めてはいけない」と思い直しました。

 駅に着き、私は自分の手を娘に差し出すと、娘は嬉しそうに私の手をしっかりと握って歩き出しました。エレベーターの入り口で、私は時計を見ました。「いま何時?」と娘が聞くので、「十分遅れたね」と私は答え、もうそれ以上のことは何も言いませんでした。

 この事を同修に話したら、「なぜ娘さんがもたつくのか、あなたは考えたことがありますか?」と同修に指摘されました。私は、「それについては考えたことがない」と答えますと同修は、「最近、あなたも時間通りに来ていないからだと思いますよ」と言う同修の言葉を聞き、私は思わず赤面してしまいました。同修の言う通りで、まず自分を探すことを忘れてはいけないのです。相手が自分の身内であればあるほど、何か起きた時に、内に向けて探すことを忘れがちです。なぜなら、情の要素が入っているからだと思います。

 二つ目は、ある同修が訴訟した事例です。この案件はすでに裁判所に提訴する段階まで進んでいました。裁判官は弁護士と開廷する日程を合意していましたが、弁護士のスケジュールの調整ができないため、地元の知り合いの弁護士を頼むことにして、本事件に臨時介入する条件で、開廷日を延期させることが出来ました。しかし、それによって新たな手続きや、弁護士側の追加費用などが生じる問題が現れましたので、地元の弁護士と協議し、更に同修の家族と何度も意思疎通をした結果、家族の同意を得ることが出来ました。しかし、この件についてフォローする同修がいませんでした。

 一カ月近く経ち、弁護士への支払いがまだ未納だったため、弁護士側からクレームが出たことが分かりました。私と一緒にこの事に携わってきた同修からも、私に対して不満の声が上がりました。これを聞き、なぜ私を責めるのだろうと、反対にこちらが不満な気持ちになりました。

 この同修と相談した結果、午後2人で一緒に支払いの手続きを済ませましたが、お金を引き出すと同修は一緒に行くことをやめ、家に帰って学法をしたいと言い出しました。私はあっけにとられて、一瞬いろんな事が頭をよぎりました。でも思い直し、この同修は引っ越したばかりで、学法する時間が少ないのではと思い、「いいですよ、学法は大事なので、振り込みは私に任せて」と同修に言いました。同修に言葉をかけた自分の気持ちは、複雑で不純な要素が入っていたと感じましたが、この時自分の判断は正しいと思い込んでいました。

 振り込みに行く途中、先程の出来事を振り返ってみると、自分には無責任な心と人に頼る心があることに気づきました。同修の家族の連絡先を知っているのに、なぜ最後まで責任を持って家族に協力し、完璧にやり遂げることができなかったのか。師父は「実は大法弟子として、こういう時、念が正しければ、修煉のこと、責任のこと、しっかり行う べきことを考えれば、不完全だと思っている部分を黙々と補うべきです。これこそ大法弟子が行うべきことです」[1]と仰いました。しかし同修からの不満の声は、私の「人に指摘されたくない心」に触れました。自分を第三者の立場に置き、この件は自分に関係ないことだと考えていました。同修が最後に表した不平不満は、まさに私のこの心の中に潜んでいた不満な気持ちではないでしょうか。私は内に向けて探しながら、自分に浄化する機会を与えて下さった師父に、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。

 弁護士と一緒に不当に拘禁されている同修の面会に行きました。通常、行く時に、弁護士はその同修の今の状態を伝えてくれます。初め、弁護士から聞いた同修に関する状況は、その同修の実際の修煉状態だと思いましたが、徐々にこれらの法理に符合していない考えを正し、自分自身を正すべきだと気づきました。弁護士からある同修は囚人の為に募金をしていると教えられました。同修のその行動は明らかに常人のことに参与していて、大法弟子として行うべきことをやらず、怠ったのです。最近、私も似たような状態に陥っています。大量の労力を常人のことに費やしているのです。同修のこの状態は私への警告なのです。直ちに自分の状態を正さなければなりません。私が正しい修煉状態に戻ったとき、弁護士と共に面会する同修に会いに行くと、その同修も正念に満ちていました。

 以上のことから、自分の観念が変わりつつあることが分かりました。最初、私は人の不足に目を向けていましたが、今では他人は自分を映す鏡だとみなすように変わりました。同修の行いは、鏡に映る自分そのものなのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『各地での説法十』「さらなる精進を」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/19/333190.html )
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2016/9/24/159282.html)
 
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