法を実証する計画に協力し、心を込めて行う
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 文╱中国大法弟子

 【明慧日本2016年12月18日】

 同修が連行されることをどう見るか

 同修を救出する活動に参加した当時、何よりも早く同修を救出したい気持ちが強く、しかし、同修はなぜ連行されたかについて「きっと、同修は修煉において漏れがある」との認識に留まり、時には、周りの同修と一緒に連行された同修の「漏れ」を探すことに没頭し、一時、暗い空気が空間場に漂っていました。法を学ぶことによって、同修の問題を探すのではなく、内に向けて自分を探すべきで、つまり、同修の「漏れ」をなぜ私に見せたのか? 自分にも同じ問題があるのではないかと認識するようになりました。

 次第に、同修がなぜ連行されたかについて、実はもっと多くの背景があり、ただ単純に考えては行けないと思うようになりました。なぜなら、このような結果になったのは、同修の個人的な問題もあれば、全体的な問題もあり、同修の修煉状態の問題もあれば、歴史上の問題もあることが分かりました。私の今の認識では、同修が連行されることは、同修の修煉環境の変化であり、けっして人間の観念で見ては行けない、人間の基準で物事を判断しては行けないと思いました。実は、当事者の同修にとって、どこにいても修煉する環境なのです。もし、常人の考えを超越して見るならば、それは直面すべきことであれば、正面から向き合わなければならず、それを修煉の過程に起きたごく普通のことと見なし、法の要求通りに修煉者としてやるべきことをやり、内に向けて探すべきことを探し、真相を伝えるべきことを話し、人を救うべきことを行い、求めるべき権利を求めればいいのです。常人の言葉で言えば、それは迫害を反対することですが、修煉者から見れば、それは自分の修煉の道を正しく歩むことです。迫害と思えば迫害になるし、修煉の過程と見るならば、それは修煉の過程になります。心の中に恐れるという物質がなければ、どうして修煉者を迫害することが出来るでしょうか。

 同修を救出する時、何をすべきか

 それなら、同修を救出する時、私は何をすべきでしょうか? まず、私は観念を変え、人の考えを乗り越えなければならないと思いました。同修を救出する時、出会った様々な人、例えば、同修の親戚、弁護師、警察官・検察庁や裁判所の人々が、すべて真相を待っている衆生として考え、いかに真相を伝えれば良いかを工夫し、そして真相を話す過程で、絶えず自分の心を浄化するようにしました。

 最初のころ、私は同修を救出することを大変重大なプロジェクトと見て、何か凄い責任を担っているように考えました。結局のところ、それはあくまでも真相を伝える一つの方法であって、面と向かって真相を伝える大勢の普通の同修と同じで、ただ真相を伝える相手が限定され、比較的に絞られているに過ぎないことに気づきました。身の入れ方、協力の仕方に関しては、皆さんが直面することは大した違いがないことが分かりました。私は独りよがりで、他人より偉いとの心を修め、自分の位置を明確にし、自分を同修の中に位置付けし、真相を伝え、人を救い済度することに力を入れました。

 何事も心を込めて行う

 「何事も心を込めて行う」ことに関して、私には多くの体得がありました。実は修煉してから仕事をしても表面に留まり、見たところでは仕事を行いましたが、注意深く見てみると、ただ済ましているだけに過ぎないことが多くありました。常人からも「あなたは心を込めていないわよ」とよく言われることがありました。それは常人の中のことでしたが、しかし、師父は私に気づかせてくださっていることが、分かっていました。

 同修を救出する過程の中で、師父は1人の同修と協力することを按排してくださいました。この同修から、心を込めて仕事をすることは、どういうものかを教えてもらいました。法律の事は私達には分からないため、彼は自ら資料を調べ、内容をはっきりさせ、さらに関連部門に尋ねるようにしました。いろんな情報に対しても、彼はずっと最後まで確認し、決して人の言われるままに受け止めない、とこのようにしました。一方、私の場合、最初から申し立てる資料を提出する時、異なる部門の人が異なる内容に関心を持っていることを分かっていながら、同じ資料を幾つかの部門に送りました。その後、私は、より真相を分かってもらうため、異なる部門に異なる資料を作るようにしました。

 江沢民を告訴することから着手しました。告訴状の共通部分を詳しく読んだ後、私は江沢民集団の犯罪事実をより一層理解しました。今まで江沢民への告訴状を書いた時、私も心を込めてやりましたが、告訴状の共通部分の内容はさっと読んだだけで、詳しく吟味していませんでした。多くの同修も恐らく私と同じだと思いますが、実は、真剣に告訴状の共通部分の内容を読んでから、個人の部分を書けば、長年、私達の頭に形成した幾つかの正しくない観念を取り除くことが出来るのです。「心を込めて」行うことは物事をうまく運べるだけではなく、個人的にもとても受益するのです。時には、私は「今日公安局に行き、派出所にも行き、人に会いましたが、この機会を大事にしましたか? 彼らに真相をしっかりと伝えましたか? どうして分かってもらえなかったのですか? 私の心が純粋でなかったのですか、それとも幾つかの問題に関しては、自分でさえはっきり分かっていないのではないですか」と自問するようにしました。

 同修間の協力について

 同修Aさんと知り合う前に、多くの同修からAさんは法をよく学んでおり、法理をよく理解していると聞いていました。実際、一緒に仕事をしてみると、私はAさんの話をまったく聞き入れず、彼の話は正しいようだが実は正しくないと思いました。同修の間にもAさんに関する噂も多く、肯定的なものも否定的なものも両方ともありました。

 ある日、皆でいっしょに法を学んだ時、Aさんはまた自らの見解を発表しました。私はとても抵触して、心の中では穏やかではありませんでしたが、口には出しませんでした。法を学ぶ時、自分になぜ、このような反応があるかを探してみました。実は、私は彼の言葉にまったく気を留めず、彼が言ったことはとにかく気に入らないからです。私達の間に隔たりがあることを知っていました。私は師父に「このような隔たりは要りません」とお願いしました。さらに探してみれば、私はAさんに観念を持っており、彼の言葉が自分の考えに合わなければ、それを受け入れようとしないことに気づきました。私は客観的にこの事を見なければならないと思いました。

 師父は「それは自分のいる次元で見たものこそ正しいと信じ込んでいるからです。修煉して上の次元に到達するまでは、そんなものがあるはずがなく、信じられない、と思い込みます。これは、次元によって決まってきたことで、その人の思惟もそれから先へは昇華できないのです。」[1]と説かれました。

 私が聞きたくない理由は、私の修煉次元に限られているからだ。他に、自分の人に言われたくない心がある事にも気づきました。なぜならAさんは話をする時、いつも単刀直入で気兼ねなく、ちょうど私のこの心を揺さぶりました。私は「どんな理由があっても、同修間の隔たりを認めない」との一念を強めました。その瞬間、私の体のすべての細胞が震動したように感じ、涙が思わず流れてきました。それから、同修Aさんとの間の隔たりが消えてなくなりました。

 しかし、Aさんは私達のチームの他の同修にも影響を与えています。私達のチームには、ずっと見解の違う同修同士と、どう協力すればいいかとの問題意識がありました。しばらくの間、Aさんはずっと同修Bさんにとても関心を持って、Bさんにもっと法を学ぶようにと注意を促し、Bさんに法に則っていないことを注意し、しかも言葉がとても激しいものでした。Bさんが時に何かを釈明しようとすると、Aさんにとても強気で止められ、時にはCさんもBさんを庇うような発言をしました。Cさんは私に「AさんとBさんは歴史上に恩怨(おんえん・情けとうらみ)がある」と教えてくれました。すでにお互いの交流と協力に影響を与えるようになりました。CさんはAさんの姿勢にも不満があり、実質的な活動をしていないのに、いつもやたらに指図してくるAさんを外すようにと提案しました。

 私達が一緒に協力することは師父が按排されたことで、私達はともに高まる要素があるし、そして、歴史的な原因もあるかもしれません。しかも協力することは表面だけを見るのではなく、私達それぞれ異なる役割を果たしているので、旧勢力の手配を突き破らなければなりません。やり遂げるべきことをやり遂げるには、法を多く学び、内に向けて探し、私達の責任をしっかり認識して、はじめてお互いに足を引っ張る状況から抜け出すことができると思いました。

 私とCさんもBさんには確かにAさんが指摘した問題があると思いました。そこで私達はBさんと交流しました。しかし、交流の中でBさんの問題は、まさしく私の問題でもあると感じました。私はBさんに対しても観念を持っているのではないか? この観念はどうやって形成したのか? Aさんが指摘した問題は、自分にもあるのではないか? 私にも人に学んで、法を学ばない問題はないのか? BさんはAさんに対する崇拝心と依存心があると気づきましたが、私にはないのか? 私はこの件に関してどう言う役割を果たしているのか? と自問しました。私はAさんがBさんに対する振る舞いから、他人のことを焦り、他人のことを心配する心が見えました。実はすべての人は師父が面倒を見ておられ、私達はただ自分をしっかりと修めて、自分の空間を正していればいいことだと思いました。なぜなら、自分の正しくない要素は、他人に影響を与えるからです。そして、自分が見た同修の問題は、必ずしも同修の本当の姿ではなく、それは自分に見せて、自分の問題を反映させるためのものかもしれないと悟りました。

 いろんな同修がいっしょに協力しています。それぞれの同修は、自分のものを正しく悟りながら、自分の境地で協力して仕事をしています。本当に自分の境地の基準で同修に要求してはいけません。師父は私に「忍」の法理を展開してくださったように思いました。私達はそれぞれ異なる境地で修煉をしており、それぞれ異なる見解を持っているにも関わらず、お互いに協力して仕事が出来るのは、まさしく大法の知恵であり、それは私達が必ず修め遂げなければならないものだと悟りました。

 以上は個人の次元での体得です。同修たちとこれからも互いに、切磋琢磨していきたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/12/12/337139.html)
 
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