天津の女性技師 迫害され精神喪失し、死ぬ寸前
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  【明慧日本2016年12月30日】天津市武清区の法輪功学習者・楊健さんは、今年6月25日晩、武清区梅場派出所の警官と武清区警察官らに不当に連行され、武清区留置場に拘禁されている。楊さんの家族は弁護士を依頼した。

  1カ月前に、弁護士が検察庁で案件を調べたところ、証拠が合法的ではないことに気付き、直ちに検察庁に情況を訴えた。そのため、検察庁は案件の公文書を武清区公安支局に差し戻し、弁護士に再度来るように話した。

  11月7日、弁護士は再度検察に行き「変更のための強制措置法律意見書」を手渡し、検察に公正に検察の職責を履行し、1日も早く楊さんを解放するように求めたが、現在、楊さんは依然として拘禁されている。

  この女性技師は、5年の冤罪を被せられ精神喪失となり、迫害されて死ぬところだった。

  楊さんは大学卒業した後、ある国有企業の技師になり、両親と同郷の人達の自慢な存在でもある。1997年に法輪功を学び始めた。法輪功は人を善に導き、道徳心を重んじ、至る所に他人のために考えるように教えている。楊さんは誠実にそれを実践していた。

  1999年7.20、江沢民勢力は法輪功に対して誹謗中傷し、数千万人の学習者の家族を分散させ、肉親を失わせた。楊さんも同様に家庭が離散させられたため、1歳未満の娘と一緒に苦しい生活を過ごし、暫くして実家に帰った。

  2010年9月15日、楊さんは梅場派出所と武清国保大隊の警官らに不当に連行され、武清区留置場に拘禁された。武清区610弁公室の人員は、現地の公安警察、検察、裁判所部門を操作し、楊さんに対して5年の懲役を言い渡した。あの時から楊さんの娘は、警察官に対し恐怖症を患っている。

  楊さんは刑務所で様々な迫害を受け、日常茶飯事のように殴られ、1日が1年のように辛くて長く感じた。ある日、9人の警官らは不明な薬物を目や鼻に向けて噴射したので、楊さんは呼吸困難になり、死んだように倒れた。楊さんが目覚めた時、そばに死後用の黒色のワンピースをすでに準備していた。

  2013年1月10日晩、楊さんの両親は天津市女子刑務所からの電話を受け取り、楊さんが精神喪失になり刑務所病院に入院したと聞かされた。。両親が面会に行った時、楊さんは「私、家に帰れるの?」と両親に聞いたという。その時ちょうど冬の季節で、楊さんは夏着のままであった。

  昨年11月30日は、楊さんの両親が待ち望んだ楊さんの刑期満了日だった。

  再度拘禁され、家族と同郷の人達は救援した

  今年6月25日晩、楊さんは武清区梅場派出所の警官と武清区の刑事警察官らに連行された。刑事警察署で楊さんはゴムバンドで縛り付けられ、小さな鉄のかごに閉じ込められた。

  11月18日午前、楊さんの両親は武清留置場予審科を訪ねた。予審科の職員は「訴訟事件の責任者は不在だ」と言った。両親は入口の傍に待っていると、警官は表門の所に人が多くて見られたらまずいと考えて、両親を事務室に入れた。しばらくして、両親はまた出て来て、楊さんの父親の足が悪いのでそのまま地面に座った。すぐ2人の警官がやって来て父親を説得して追い払おうとしたが、理に適っておらず自信なさそうに話した。

  11月21日午前、気温が急に下がり雨と雪になった。楊さんの両親と同郷の人達は雨や雪の中をおして、留置場に来た。両親は表門のところでずっと事情を説明し、娘の解放を求めた。最後に2人の警官は「家に帰って、娘の帰りを待っていなさい」と両親を騙した。

  11月22日、留置場はやはり楊さんを解放しなかった。両親と数十人の同郷の人達が、武清区留置場の予審科の入口で1日待っていた。

  23日の午前、両親と数十人の同郷の人達が、再度、留置場の入口を訪れた。9時過ぎに1台のパトカーが来て、二十数人の特別警察官らが降りて、実弾入りの銃を持ち入口に並んだ。同郷の人達は動かず静かに見ていた。間もなく、特別警察官らはすべて乗車してその場を離れた。10時ごろ、もう1台のパトカーが来て、2列の特別警察官らが降りて、1.2~1.5メートルの警棒を手にしていた。同郷の人達は依然として動かず、間もなくこれらの特別警察官らも乗車して立ち去った。

  善の力は巨大であり、法輪功学習者の善の力と広い心で、これら多くの警官らの良知を呼び覚ますように望んでいる。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/28/338273.html)
 
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