トラブルの中で同修の良さを認め、自分の問題を探す
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年1月3日】なぜか分からず、ある年配の同修はずっと私に不満を抱え、時には大声で怒鳴りつけたりすることもあり、そのため私は悔しくて度々泣きそうになりました。同修と交流すると「あなたと関係がなければ、そのことはあなたの身に起きないわよ」と言われ、家に帰り自分の執着心をあれこれと探し、最後に、とっくに修めたはずの執着心が、実は奥深く隠されていたのを見つけました。

 それは、一度技術を学んだ時のことで、私達数人の同修が一緒に習いに行き、私は比較的早くその技術を身につけました。技術を教えてくれた同修は帰る前に私に「これは技術性の高いもので、使い熟(こな)さなければすぐに忘れてしまうので、専用のパソコンを使って練習してください」と言われたので「このパソコンを残してもらえますか」と聞くと、技術者の同修はパソコンを残してくれました。しかし、そのパソコンはあの年配の同修の家に置かれていたため、気まずい私は使うことなく、習得した技術も使わないまま忘れてしまいました。ある日、1人の同修がその技術を使って手伝ってほしいと頼まれた時、私はパソコンがないから練習も出来ず、習ったものは全部忘れてしまったと愚痴をこぼしました。同修はとても残念がって、それはもったいないことをしたと言いました。

 同修達が真相を伝え、衆生を救って大変忙しくしているのに、何も手助けすることが出来ず、どのことも中途半端になっている自分を恥ずかしく思いました。法を学ぶことを通して、不平不満の心はもう消去したと思っていましたが、ある日、同修から何気なく「あのプロジェクトはほとんど失敗だったね。随分お金を費やしたのに」と言われた時、私ははっとし、それは私がしっかり行っていなかったせいではないのか、私には責任がある、年配の同修と協力しなかったため、全体に損失を与えたと思いました。しかし、それに気づいた私は、内に向けて探すのではなく、年配の同修に対する不平不満が顔に出て、彼女に会えばとても不機嫌になりました。年配の同修も大きなプレッシャーを感じ、時には私に大声で怒鳴りつけました。一方、彼女の様子を見て私はなおさら余計に腹が立ち、口答えはしなかったものの、心の中ではとても不満だらけで納得していませんでした。

 その後、私を慰めてくれる同修にこの事を話して、年配の同修の愚痴を言いました。お互いに愚痴を言い合い、噂は噂を呼んで大変な騒ぎになりました。最後には、あの年配の同修の顔も見たくない始末でした。

 師父は以下のように説かれています。「ですから、いざこざが起ったときに、各自は内に向いて自分の原因を探さなければなりません。この事はあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらずあなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もしこの事があなたと絶対に関係なく、あなたに取り除くべき心を持っていなければ、この事があなたの周囲に発生することはめったにありません。もしあなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません。周辺に起きるすべてのトラブルや、あなた達の間に現れたいざこざ、現れたすべてのことは恐らくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきことがあるのです。この事があなたのせいであるか、また彼のせいであるかを問いません。あなたにこの心がありさえすれば、あらゆる方法を尽くして、いざこざに遭わせ、このまだ取り除かれていない心を認識させます。しかしあなた達はまだ言い合っており、これが私のせいではないとか、あるいは皆自分が法を守っているとでも思っていますが、彼も自分は法を守っていると思うのです。実のところ恐らく両方とも正しくないところがあったからこそ、いざこざが起きたのです」 [1]

 私は法を学び、絶えず内に向けて探し、絶えず自分を正し、また他の2人の同修との交流により、やっと自分が外に向けて探す心を、大法の真・善・忍に合致していない心を見つけました。年配の同修が私にパソコンをくれなかったのは事実ですが、しかし、自分はなぜ他の方法を考えて解決しようとしなかったのか? 自分はしっかり行っていないのに、同修を怨んだりしていいのでしょうか。私達大法弟子はそれぞれ異なる境地にいて、異なる出発点を持って仕事をしています。私は同修の良さを見ようとせず同修を見下し、他の同修に愚痴まで言い、それは人に寛容ではない心の表れではないかと思いました。

 年配の同修と私はお互いに絶えず弁解し、噂が噂を呼び、私も冷静さを欠き、集団学法の純正な環境に影を落しました。人間の次元で正しいかどうかを言い争い、噂を広める、それは大法弟子がやるべきことではないと思いました。師父は「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[2]とおっしゃいました。

 法を学ぶことによって、弁解することは口を修めないことだと分かりました。口を修めなければ、同修の間の隔たりを強め、衆生を救い済度することに影響を与え、その結果はとても恐ろしいものです。そこで、私は学法グループの同衆に「もし、私が法に則っていない発言があれば、あるいは、修煉と関係ない話をすれば、すぐに止めてくれるように」とお願いしました。

 同修が鏡となってくれることによって、私は深く隠れているなかなか気付かない執着心を修めました。この時、私にはもう不平不満がなくなり、自分を圧迫して、ずっと心を塞いでいた物質が一瞬にして消えてなくなったと感じ、同修に対する感謝の気持ちが生まれました。自分の執着心を見つけた時、年配の同修も変わりました。

 私の心性を高め、次元を昇華させるため、師父が払われた苦心に感謝します。師父の慈悲なる導きに感謝致します。同修達の無私の助けに感謝します。

 注:

 [1]李洪志師父の著作:『ヨーロッパ法会での説法』
 [2]李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/12/27/339393.html)
 
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