「どうしようもない」心理の背後に
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文/中国大陸の大法弟子

 【明慧日本2017年5月25日】私の修煉過程において、「どうしようもない」という思想状態がよく現れて、ずっとそれが自然な状況だと思い、重視しませんでした。過ぎ去った1年間、もうこれ以上修煉し続けることが出来ない状態が何度も現れて、どう修煉すべきか分からなくなって、一つのネックに引っかかってどうしても乗り越えることが出来ず、とても苦痛に思い、甚だしきに至っては、「もうどうしようもないから、この状態の中で正法が終わるのを待とう」という念さえありました。最近、歯がひどく浮くようになって、やっと根源から原因を探そうと考え始めました。

 一、どうしようもないの表れ

 歯が抜けることに対してどうしようもありませんでした。およそ十数年前、私が50歳余りの時、一部の歯は緩くなり始めました。常人の観点で見れば歯ぐきがよくことです。当時、それが「自然」現象だと思い、気にしませんでした。それからの十数年間、歯が一本一本と立て続けに緩くなってしまい、だめになったら抜いたり、自然に抜けたりもしました。今の私には十数本の歯しか残っていません。私は何回か、数本または全部の歯が抜けた夢を見たことがあります。夢の中の私は最初に気落ちしますが、それから一つの考えですぐに釈然としました。「入れ歯をつければいいんじゃない?」しかし、現実の中で、歯が抜けようとするとき、私は発正念したり、歯と対話したり、師父について一緒に家に帰ることができるように頑張らせたりしましたが、一回も効果がありませんでした。そこで私は諦めて、「もうどうしようもないから」、自然に任せようと考えました。この情況の現れは自分の業力のせいかもしれないし、旧勢力の要素が絡んでいるかも知れません。いずれにせよ、自分が「同意」したことです。それらは夢の中で私の意見を「求めた」のではありませんか? 自分が同意したので、それらも道理に叶いました。

 同修の病業に対してどうしようもありませんでした。重い病業に遭った同修はよく家族にむりやり病院に連れて行かれ、化学検査や輸血、点滴、緊急措置、薬の服用を強いられ、あれこれといった制限をかけられました。このままではいけないと思い、次の輸血のタイミングを常人が定めた時間より遅らせようと発正念しても、効果がありませんでした。血液像が低すぎるため、同修はまたも繰り返し病院に連れて行かれて輸血されました。口では旧勢力の迫害を認めないと言いつつ、結局は「どうしようもない」の心理に負けました。

 静功を煉る時や発正念の際は眠くて掌が倒れ、上の空になっていました。この現象は随分長く続いていました。「上の空になってはいけない。上の空になってはいけない」と自分にいくら念押ししても、「滅」という文字を口から発する前に、主意識はすでにどこかに飛んでしまいました。本当に「どうしようもありません」でした。

 真相を伝えても常人が信じようとせず、常人が三退しなければ、私はまたも「どうしようもない」心理に陥りました。ある人が、私は数年間かけて何度も真相を伝えましたが、やはり三退しませんでした。そこで私はどうしようもなく、恐らく彼(彼女)が救いようのない人だと考えて諦めました。

 まだ多くの例がありますが、一々列挙することを控えます。

 二、「どうしようもない」心理の根源を探る

 観念に支配されて、一部の事は発展後の必然的な結果と見なしました。常人には各種の観念があります。重病にかかったら病院に行くのは当たり前のこと、歯茎がよくなければ歯が緩くなったり、抜けてしまうのは当たり前のこと、睡眠が足りなければ眠くなるのは当たり前のこと等々があります。しかし、修煉者にとって、これらの人間の観念が正に向上の妨げになります。

 主意識が弱く、一つの考えや一つの念において自分をしっかり修めていませんでした。修煉というのは、自分の一つの考えや一つの念をしっかりと修めないといけないことを知りつつ、ただ表面上の知るという状態だけに止まり、正しくない観念や考えが現れた際、「こうしてはいけない。これは法に符合していない」と象徴的に考えて、瞬時にその考えを捉えて深く掘り下げ、徹底的に取り除くことをしませんでした。

 自分に厳しく要求しませんでした。2001年、私が留置場で迫害を受けた時、同じ部屋にいたある同修が、5年間修煉してきてもいまだ結跏趺坐ができない私を見て、こう言いました。「あなたは自分に厳しく要求しなかったでしょう」。十数年経った今でも、私は度々その同修が話した光景を思い出します。確かに、私は自分を甘やかすことが常になっています。多くの向上すべき機会を口実をもって逃してしまい、肉体的にも精神的にも苦しみに耐えることができず、嘗めたくもありませんでした。高次元では苦しみに耐えることがよい事とされていますが、私は苦しみから避けるばかりで、「苦を嘗めるをもって楽とす」[1]がなおさら言えませんでした。

 求める心がありました。「どうしようもない」心理は往々にして求める心から由来します。事をなす際に習慣的に結果を求め、急いで功を奏したく、目標が達成できなければ「どうしようもない」考えが生まれてしまいます。たとえば、自分あるいは同修の病業が奇跡的に回復することを願い、それによって周囲の衆生が救われることを期待していました。一見して衆生を救いたいように見えますが、実際は自分を実証したい心がありました。真相を伝える時も、早く成果を得ようとする「威徳」を求める心があって、相手が賛同してくれなければどうしようもなくなってしまいました。

 100パーセント師と法を信じていませんでした。一時、私には「師と法を信じていないのではなく、良く修めていない自分の次元が低いため、信じることができない」という考えがありました。実質としてやはり師父を信じていませんでした。たとえ次元が低くても、真に努力すれば、師父は常に身辺にいらっしゃいます。漸悟にいる私たちは自分の信じる度合いによって、それ相応の結果が得られるでしょう。しかし、頓悟にいる大根器の人はすべての功能が細胞の中に閉じ込められていても揺るぎない信念を持っています。

 三、どのようにして「どうしようもない」心理状態から突破するか

 「どうしようもない」という心理に関わる各種の根源の間に連帯関係があって、向上においてもそれらが互いに合間っています。私が向上できないとても重要な原因の一つは、問題を発見した後に「発見」の段階に止まり、更に根源まで掘り下げていないので、解決法を考えることなど、なおさら出来ていませんでした。修煉状態がいつもそわそわして落ち着かず、表面に留まっていました。今になって気づいたのですが、本当に自身のよくないものを取り除きたければ、問題を発見した後に必ず具体的な解決の措置まで考え出さなければならず、そして必ずやり遂げるように常に自分に要求しなければなりません。やり遂げて初めて修煉していると言えます。

 真に師と法を信じなければなりません。師父は「人の修煉は始めから終わりまで悟りが欠かせず、迷いの中で修めるのです。西洋では信を重んじ、始めから終わりまで信を重んじ、信じなければ何もないと言っています」[2]とおっしゃっています。「迷信」、「迷信」と言われますが、実は最も貴重なのは「迷いの中で信じること」です。もし師父はいとも簡単に奇跡を見せて下さるなら、極悪非道な人も信じます。修煉者はみな病気がなければ、迷いもなくなります。師父はこのように開示されています。「常人の中で人間は人であるのが目的ではなく、返本帰真が目的なのですから、そこにやはり悟性の問題があるのです。多くの人が間違いなく飛べるのを見てその人も修煉しはじめるとなれば、悟性の問題が存在しなくなります。ですからあなたが修行しても、人に簡単に見られてはならず、人に示してはならないのです。他人はまだ修煉しなければならないのです」[3]。人間は迷いの中にいるからこそ、道を聞いて笑う下士もいれば、迷いの中で修煉しているため、時に信じ、時に疑い、「存るが若く、亡きが若し」[4]の中士もいて、勤勉に行い、「見てもよく、見なくてもよく、悟りによって圓満成就します」[5]の上士もいます。

 「信」の問題を解決するには、多く学法するしかありません。しかし、本を読んだだけでは学法したとは言えません。任務をこなす形での読書は何の役にも立たず、法を学んだとは言えません。今、私は『轉法輪』を暗記しています。一章や一節を一気に暗記できなければ、一段落ずつを暗記していきます。もう一つは明慧ネットの同修たちの交流文章を読むことです。同修たちの修煉に関する認識や、実践の中での確固たる行いに、私は大いに励まされました。正直な話、ほぼ独りで修煉している私にとって、明慧がなければ私は今日まで堅持して来なかったかもしれません。

 「主意識は必ず強くならなければいけません」[6]。師父はこのようにおっしゃっています。「主意識が厳しく大脳を制御すればするほど、ほかの生命が入り込めないのです」[3]。ですので、必ず主意識をしっかり守らなければならず、よくないものが入ってこないようにしなければなりません。瞬間瞬間に現れてくる正しくない念や考えを捉えて、それが出て来た途端に意識して、すぐに排斥、否定すべきです。

 師父は「身体には表面の空間にない各ミクロの部分があるのではありませんか? いずれも考えを生じさせることができます」[7] とおっしゃっています。これらのミクロの部分で発生したよくない思想をタマネギの皮をむくように、一層一層と取り除くべきです。よくない思想が各ミクロの部分にあって、繰り返し現れてくるので、弛まず努力していかなければなりません。たとえば、金銭に対する執着ですが、私は修煉当初から絶え間なくこの方面の事に出会ってきました。買い物すれば多くのお釣りが帰ってきたり、一等賞に当たったり、他人にお金を盗まれたりしました。今でも、この方面の事が現れてくるので、いまだに自分には利益を求める心があると思いました。

 また、師父は「あなたの考えがある種の生命と一致すると、その生命はすぐさま作用を働きますが、あなたは自分の考えの根源がどこにあるのかが分からず、自分がそうしたいからだと思ってしまいます」[8]とおっしゃっています。旧勢力も修煉者のこのような漏れを捉えて、絶えず修煉者に良くない念を加えます。このような外部の生命から加えられた作用に対して、「それは私ではない、要らない、排斥し、反対する」と考えて、真の自分とはっきり見分けるべきです。良くない考えが現れたり、発正念の際に上の空になれば、「私はどうしてこう考えるの?」「どうしてまた上の空になったの?」と考えないで下さい。実は、「私」が考えたのではなく、「私」が上の空になったでもなく、他空間のよくない生命が「私」を制御して作用したのです。私は「つたない」方法を使っています。それらが現れると、私は繰り返し「それは私ではない、私ではない、あなたを滅する、滅する」と考えました。上の空になったと気づいたらすぐに、「主意識はどこに行ったの? 早く帰って来なさい! 師父が神々を率いて旧勢力と交戦されている最中、師父はあなたを見ているよ!」と常に主意識を引っ張ってくるようにしました。後天的に形成された「非自分」に対して習慣的に排斥していくと、それが徐々に少なくなってきました。

 根本から仮相を識別しなければなりません。たとえば、病業が現れた時、それが旧勢力の探りかもしれません。師父が「最初は、まともに取り付く勇気がなく、まず少しの功を与えて試してみます。すると、その人はある日突然、本当に求めていた功が出てきて、病気の治療もできるようになったのです。動物はそれを見て、演奏する楽曲の前奏がうまくいったので、しめたと思い、『彼が望んでいるからいっそのこと乗り移ってやろう。取り付けば、思う存分たくさん与えてやれる』」[3]とおっしゃっています。体に不調が現れるとすぐに否定します。「これは私への探りだ。わずかな考えの違いで異なる結果が生まれる。修煉者には病気がない。これらはすべて仮相だ。認めない。排斥する」。師父は「認められていない無理やりに加えた迫害は法を犯しているからです」[9]とおっしゃっています。少しでも不安や躊躇があって、直ちにそれを排斥しなければ、受入れたとみなされて、それが本当にやって来ます。

 神の基準で自分を厳しく律しなければなりません。自分を厳しく要求しなければしないほど、どうしようもないと思われる事が増えてきます。私達の目標は神を修めることですので、至る所で一つの考えや一つの念において神の基準を持って自分を律しなければなりません。どうしようもない事に出会った際、私は「神なら、どのように考え、どのように行動するだろう?」と考えました。同時に、すべての「どうしようもない」対して内に向けて自分の執着を探しました。歯が緩くなれば、「口を修めなかったのではないか、または『口その執着を断つ』[10]をしなかったのではないか?」と考えて、伝えた真相を聞き入れてもらえない時、「慈悲心が足りなかったのではないか?」と考えて、同修の病業が長引く場合、「自分がいつも外を見ている(同修の不足を探す)のではないか? あるいは同修の執着に執着しているのではないか?」と考えて、発正念の際に掌が倒れたり、上の空になれば、長い間きちんと学法できなかったのではないか?」と考えました。

 観念を転換しなければなりません。人間の観念を転換しなければ、神になれません。師父は「私はあなたを成佛させ、修煉させようとしています。修煉の中であなたは後天の観念を取り除き、あなたに取って代わっている思想業力を取り除かなければなりません」[11]とおっしゃっています。自分の空間場を整理するための正念を発する際、私は「あなたたちはまだ生きている? それならあなたたちを死なせる」と思って、しっかりと念を「死」に定着させました。何かの思想が脳に反映されるとすぐにそれを分析し、「誰がこのように考えているのか? 人間の観念なのか、あるいはめちゃくちゃな生命なのか? 法の基準はどうなっているのか?」と考えました。

 「どうしようもない」という考えはそもそも人間の観念によってもたらされたもので、習慣的に人間の「不可能」という思惟方式で物事を考えて、神の思惟ではありませんでした。常人の観念を捨てて、次第に神の思惟を形成し、ようやく常人が不可能に思う奇跡を創出することができます。同修たちはすでに無数のこのような奇跡を創出してきました。

 以上は私の現次元での体得とやり方ですが、法に符合しない部分があれば、同修のご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪(巻二)』
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [4] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』
 [5] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「何のために見えないのか」
 [6] 李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「長春法輪大法補導員のための説法」
 [7] 李洪志師父の経文:『二〇一三年米国西部国際法会での説法』
 [8] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
 [9] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』
 [10] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」
 [11] 李洪志師父の著作:『ヒューストン法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/24/346043.html)
 
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