心性を高めることを法から学び 一つ一つやり遂げる
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年7月9日】同修から指摘されたおかげで、私は週末の緩む状況を改めて、毎日基本的に『轉法輪』を一講読む事を堅持し、さらに『洪吟』を読み、1時間の煉功をするようになりました。正しく信じる心を持ち、正念は絶えず私を励まし、また多くの修煉の素晴らしさを体得し、内に向けて探す過程で、修煉の中の不足が見えてきました。最近起きた修煉中の少しの体得を書き出してみます。

 大法はこんなにも素晴らしい

 この週末、修煉の体得を書く計画をしていましたが、義弟夫婦が外地からやって来て、どうやら義弟が病院で手術を受けなければならず、夜になると、彼らに付き合ってご飯を食べ、雑談しなければなりません。

 週末の朝早くから起きて義弟の嫁と姪にご飯を作るので、『轉法輪』を一講読む事と煉功ができませんでした。ご飯を作りながら思った事は「義弟は自分が医者でも病気に罹ってしまい、病人と同じように、省の病院の医者の指示と管理に従わなければならません。しかし、私は病気が無くて全身が軽く、さらに彼を手伝って病院を探し、ご飯も作っても疲れないし、少しも恨み言を言いません。それは私が修煉者だからで、常人のようにはせず、苦を持って楽とするからです!」ということです。ここまで考えると急に師父に非常に感謝の心が生まれてきました。法を学んでいる時に法理が深く悟れなくても、師父は法を私の日常生活の中に溶かし入れて、精進する中で速やかに「悟る」ようにしてくださっているのです。

 義弟が手術台に乗る前に、彼に「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」を心の中で念じるようにと教えました。私は義弟の一家3人にすでに三退」してもらっているので、彼が必ず無事手術が済むことを信じていました。

 口を修めるを実践し 陰口する良くない行為を取り除く

 姑はとてもマメな人で仕事が良く出来、倹約して家を守り、特に舅と夫のことを気遣って世話をしていました。

 てんかんを患っている夫の妹がおり、姑は休みを惜しまずに世話をし、行き届いた介護をし、経済的にも援助し、夫の妹の発作が起きるのを心配するあまり、彼女の情緒不安定さを放縦し、娘と娘婿、外孫を限りなく溺愛していました。夫の妹のために喜び、怒り、心配していて、その親心は傍から見ていて、とても哀れでした!

 私は修煉して以来、非常に姑の苦しみと頑張りを理解していました。ですから私と夫は、夫の妹が毎年お正月に帰って来ると、たくさんの正月用品を準備し、お年玉をあげ、ご飯を作り、家事をし、さらには夫の妹の入院資金、手術費、生活のあらゆる費用、また入院中の生理期にナプキンの取り換えや、排尿の手伝いもしました。目的はただ一つで、舅と姑の負担と苦しみを軽減させるためでした。私は法輪大法を修煉しているからこのように出来たのです!

 姑の家に戻ると、義弟と義弟の妻の2人と雑談して、姑と夫の妹のあれこれの話を聞いて、私は彼らの不満に同調して、自分の鬱憤も現れました。私はかつて母親に、「このように陰で自分の姑の事を言うのはよくありません!」と叱られたことがありました。夫にも「人はそれぞれの生き方があるので、あなたは手伝えるなら手伝い、老人のやり方に干渉するべきでない。人には人の考え方があるのだ」と言われ、また「非難するなら本人に直接言えばいいことで、このように陰で言うべきではない」と言われました。

 絶えず学法するにしたがって、私もどういう事かが分かってきました。修煉者としては、常人の理で問題を見てはならず、法理を用いて見るべきで、それでやっと常人の理から抜け出せるのです。一切の問題を淡白に見て、自分の不平不満や闘争心、好奇心などの執着心はすぐに取り除くべきことなのです。

 法理を理解したことで、姑に対しての鬱憤は減少しましたが、時々思い出す事もあって、特に家庭の雑事をあれこれ整理して片づけている時に、強烈に不平不満な思いが出てきました。

 義弟夫婦が外地から、診察のために来訪した時、食卓でまた姑と夫の妹一家のあらゆる事が話題にのぼり、私の同意を引き出し、共に姑を非難させようとしました。

 私ははっと師父の説法を思い出しました。「人生短し 来て宿に泊まる 来た時に立てた誓いを忘れるべからず 路上の名、利、情、仇に躊躇して 何時に悟って家院に返るのか」[1]。私は姑と夫の妹はまだ「三退」していない。必ず私が良く出来ていなかったのであって、彼女たちに大法の素晴らしさをまだ認識してもらっていなかった。私は必ず口を修めなければならない。彼女は私の姑ですから、陰で他人の是非を言うべきではない。こう思うと、正念が強くなって心がとても暖かくなったように感じ、義弟と義弟の妻の話題を変えました。

 人のミスに対して容認する

 師父はかつて修煉者が車にぶつかった事を説かれ、その時、心性の高さを表した物語を説かれました。「しかし、ゆっくり地面から立ち上がったその学習者は、『大丈夫です。行ってください』と言って、身体に付いた土をはたいてご主人と一緒にそこを去りました」[2]。私は何度もこの修煉の話を読んでいましたが気に留めず、心の中にそんなに印象に残っていませんでした。

 ある週末、夫と温泉に行きました。足の手入れをするサービスがあるのを見て、頻繁に高い靴を履き、足の裏にタコが出来ているので、ちょっと手入れをしてみようと思い、足の手入れのサービスを申し込みました。担当者はハンサムな若い男性で、手袋もせず私の足の手入れをするのを見て、とても心苦しく思いました。自分の足の裏のタコはとても分厚いと分かっていたので、手入れもしにくいだろうと思いました。しかし、費用が高い事を思い出し、すぐに手入れを終わらせれば割に合わないし、またすぐに他の人に頼んで手入れをしてもらわなければなりません。右足を手入れする時、ちょっと痛み、手入れが終わると、次に左足を手入れする時、この若者は小声で、「おばさん、今回は足の手入れのお金は要りません」と言いました。もしかして私の足をこすり過ぎて血が出たのではないかと疑いました。私がそれを許さないと思ったのか、先に間接的に謝ったのでした。

 思い出したのは、普段自分で足の爪を切る時も頻繁に出血していたこと、また自分は修煉者で、人を責めてはいけないこと、人をゆすってもいけません。それですぐに若者を慰めて言いました。「大丈夫よ、私は佛を修めています。これくらいの出血は大丈夫よ、少しすれば良くなるわ。お金は払います。あなたの仕事も大変で、さもなければこの仕事はしない方がいいわ。サービスでして貰ってはいけません」

 この若者は非常に感動して「自分は今日良い人に出会った」と言いました。私はお金を支払ってから、夫とその場を離れました。心はとても気持ちがよくすっきりしていました。この時すぐに、師父がかつて法の中で説かれた物語を思い出しました。この中に私の心性を高める事があるなんて思ってもいませんでした。でも普通の事のように見えて、普通ではない事を師父はきちんと按排して下さっているのです。

 不満な心を 修めて取り除く

 私は2009年の前任の校長に招聘されて学校の教務主任になりました。標準的なことを教育するのが主な仕事で、教務主任の順位では第一位でした。2012年に現在の新しい校長が就任しました。私がいつも陰で教師の是非を言わず、校長の「側近」をしませんでした。すると、かつて真面目に請け負った電子原稿の市級検査が未合格なのを発見し、これで今の校長によって中級選挙の時に私の教務主任の順位を最下位にされました。その結果の宣告の時、私は少し意外でしたが、現任の校長は少しも私に面子を立たせることをさせず、まるで私が自分から辞職するように仕向け、黙認しているようでした。

 私はまず自分が修煉者であり、この職務担当が第一位であるという名利の執着はありません。ただ学校の教務の仕事はきちんと秩序立って行い、修煉者の気骨を表わし、教師の気質を裏切ってはいけません。私は役職の順位を一切気にせず、ただ責任を持って教育をし、職責の範囲の教務を比べたり、気にしたりもしませんでした。

 ある教師は見ていられずに、「あなたこそ私たちの心の中の大主任です!」と言いました。私はそれを聞いて心の中で慰(なぐさ)めらると同時に、ひそかに現在の校長が何も知らず、まるで自分こそが恥を忍んで重責を担う素晴らしい人物であるかのように振舞っている事を憂い嘆きました。師父は説かれました。「修煉する人 自らの過ちを探し 各種の人心取り去ること多し 大なる関小なる関、落さんと想ふべからず 正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」[3]

 私の悔しさや不満の心は、すぐに飛んで行き煙滅しました。修煉者として、これは私の心性を向上させるためのもので、どこにまだ常人の仕事の中に、不満の心があると言うのですか!

 注:
 [1]  李洪志師父の詩: 『洪吟三』「痴」
 [2]  李洪志師父の著作: 『轉法輪』
 [3]  李洪志師父の詩: 『洪吟三』「誰が是誰が非」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/28/350185.html)
 
関連文章