自分は金であるのか、それとも砂であるのか、いずれか
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文/中国の大法弟子

  【明慧日本2017年7月24日】ある崂山道士は道長について壁を通す術を学びました。下山のとき、道長はこの道士に「心が純粋でなければなりません。悪意があってはいけません。顕示してはいけません」と厳しく言い付けました。しかし、この道士は下山した後、すぐに奥さんにこの術を顕示しました。その結果、この術を見せると頭をぶつけて腫れ上がりました。彼は道長に騙されたと文句を言いました。これを見た人は「この人自身の心が不純で、まるで凡人のようです。あれこれを考え次元に達すことができず、神仙を恨みました」と論評しました。今日、このような人が大勢おり、私もよくそれを感じています。

   数年前、私は同修に出会えず、1人で法を勉強しました。学法をするとき眠くて、毎日『轉法輪』を2ページしか読めませんでした。私は小さい時からリューマチに罹り、各関節が大きくなリ、また心臓病、乾癬もありました。法を勉強してから、病気がみな無くなりました。一昨年、師父は私の体をきれいにしてくださいました。まずお腹が張り、腹痛が激しくて立つことすら出来なくなりましたが、しばらくして良くなりました。その後、両目が赤く腫れ、頭痛を伴い激しく痛むので、両手で頭を抑えたまま、ずっとベッドの上で動けませんでした。3日後、目の赤みが引いて腫れもなくなり、今までの悪い視力もすごく良くなり、全身が非常に軽くなりました。その後、私は同修に会いましたが、一部の同修が病業の関門を越えられないのを見ました。彼らは師父の説かれた法を思い出し、病であることを疑いましたが、「師父はあなたの体をきれいにしていらっしゃり、病ではありません。なんで病だと思うのでしょうか?」を理解していませんでした。

   私の身辺にいる同修もお腹が張りました。彼は「先日はお腹が大きくなり、今日は小さくなりました。私の心が不純なので、師父のお話をしっかり聞いていませんでした。今、完全に師を信じ、法を信じることができたら、この関門を乗り越えることができました」と言いました。

    明慧ネットにある同修の『未来人の神話物語』の一文の中に「峨眉山に道を修める者が多くあります。・・・・・・山腹以下は200~300年、最長では500年まで修道者が最も多く、彼たちの功柱の高さも山腹までで、あるいはちょっと越えただけでした。・・・・・・山腹以上になると修道者は徐々に減り、彼たちの次元も高くなり、年齢も高くなりました。山頂にいる修道者は極めて少なくいくらもおらず、2千年以上修煉し功柱も銀河系を越えました。一部は如来の次元を大きく越えましたが、まだ修めていて圓満成就していません。・・・・・・」

   人間は本当に苦労するものです。ゆえにこんなに多くの人が修煉したくて、苦界から抜け出し、輪廻転生を越えて神になり、逍遥自在( しょうようじざい・世間から離れて、自由に楽しむ)し、永遠に苦労しないようになりたがっています。しかし、修煉は苦労するもので、人心があればあるほど、多くの苦があるのです。そして人心が大きければ大きいほど、より多くの苦があるのです。多くの人はこの苦に耐えられず、修煉を放棄してしまいました。ゆえに峨嵋山の修道者は、山頂まで成就できた人は極めて少なくいくらもいません。

 今日の大法修煉者も同じです。師父は『轉法輪』の中でおっしゃったことが全部法理で、みな神に成就する理です。理に従ってできたら神になります。現実を重んじ、名、利、情を放下できない人は、修めて神になりたいのですが、修煉を真面目にやらず、いつも自分の名利を先に考えてしまいます。修煉は厳粛なものであり、極めて艱苦なものです。師を信じることができず、法を信じることができず、法の要求に従って行わなければ、神になることなど到底無理で出来ません。師父は「修煉とはまさに大波で土砂を洗い流すことで、残ったものこそ、金なのです」[1]とおっしゃっています。

 昨年、我が地区にある同修はイヤホンを付けて師父の説法を聞きながら、家族に強制的に病院へ送られている途中で、肉身を捨て去りました。彼女の周辺にいる一部の同修は、こんなに精進している人が亡くなったことを見て、自分も耐えられなくなり病院に行って治療を受けたり、薬を飲んだり、入院したりしました。

 修煉の中に、早めに肉身を捨て去ったことは正常なことです。早めに去った同修は必ず砂ではありませんが、彼たちの死を通して、砂が淘汰されていきます! 師を信じることができぬ人、法を信じることができぬ人たちが、そして、この関門を乗り越えることを放棄した人たちが淘汰されていきます!

 修煉は法を以て師となし、自分を修め、自分を成就させるものです! 成就できるか否か、金であるのか、それとも砂であるかは、みな自分が決めることなのです!!

    以上は、個人の悟りで妥当ではないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「誰のために修めるのか」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/18/349625.html)
 
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