文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年7月24日】善良な人と友達になれば、自分の品格も高められ、進むべき道から外れることはありません。しかし、悪い人と友達になると、相手に傷つけられ、しまいには道連れにされて、命を落とすこともあります。2000年ほど昔、どういう人になるべきかについて、孔子は「三つの良き友と三つの悪き友がある。正直な人、誠実な人、そして、知識や繋がりが広い人は有益であり、媚びる人、表と裏が真逆な人、そして、口先が達者な人は有害である」と説かれました。
世間の全ての生き物には因果関係が存在しており、修煉者といえども縁の繋がりと、業力による繋がりから逃れることはできません。出会ってしまえば、前世やそれ以前の縁を解決し、作った借りを返さなければなりません。苦を嘗め、自分を修めれば、無事に乗り越えられるはずです。同修同士が結んだのが良き縁であれば、お互いに励まし合い、修煉していき、共に精進してゆくことができます。ただ同修の間の「情」に気を付ければよいだけです。
また、このような場合もあります。今世の修煉により、特に正念の下で衆生を救い、迫害を受けている同修を救援し、真相を伝える困難を克服する中で同修たちが非常に堅い絆で結ばれ、無条件に相手をサポートしていくという縁です。同修たちのこのような出会いは、大法と師父と出会った神聖な縁であり、創世主の恩恵なのです。このような深い縁の下で、大法を実証しているのは修煉者が慈悲で、無限な大法に同化しているからです。
もちろん、同修間においても、良くない言動が存在しています。一部の新しい学習者は自分が良く修めていると思える同修としか話さず、そして、自分が早く精進できるよう、相手から何かを得ようとしています。また、自分が良く思っていない同修を毛嫌いしたり、押し出したり、酷い場合は、相手をいじめたり、あざ笑ったり、ショックを与えたりしているのです。このような同修の背後には「私」(し)が隠されており、自分がいいと思っていることをしようとしても、やはり出発点は「私」のためでしかありません。
また一部の党文化の強い同修は仲間を作りたがります。協調人ばかりと接したがるので、自ら協調人と知り合いになり、その協調人の肩を持ちますが、結局は自分を守っているのです。法を師とすることは修煉者にとって非常に大切なことです。心の中の天秤で、少しでも人間の法に傾くと法から外れ、邪道に入ることになるのです。別の方面から見ても、人は褒め言葉を聞きたがり自己中心的なので、上記のような媚びる人達にそのような場を与えたというわけです。「海外の各メディアや各国の協調人の周りには、媚びる人ばかり群れ集まっている」と以前、天目が開いている同修が言いました。修煉者がまず自らを正すことができれば、漏れなど存在しないはずではないでしょうか?!
同修間の因果関係には様々な種類があります。ここで、僕自身とある同修との間の悪縁を、善意を持って解決した経験について話したいと思います。海外に出て間もなくして、ある同修が僕を訪ねてきました。彼への印象は非常によく、真修して精進している同修であると思っていました。十年余りの間、どこにいようと何が起ころうと、彼と心性や法理に基づいた認識などを交流しました。彼が助けを必要とする時や、何かトラブルに巻き込まれた時、いつも真っ先に手を差し伸べますし、全て善意で彼の為にと思っています。それから、しばらくの間、彼と一緒に真相を伝えていました。最初は2人とも喜びましたが、すぐに、彼が長年実修していないことに気づいたのです。以前僕と交流する時、彼はほとんど面子を重んじ、実際思ってもいないことを口にすることが分かってきました。彼と接している時、自分を厳しく律し、彼に怒鳴ったことは一度もなく、常に忍耐と優しさを持って、誠実に彼を助けていたので、結果的には、僕たちはうまく協力し合っていたと言えます。
しかし驚いたことに彼とペアになって間もなくして、前世で彼を傷つけたことがあることを知りました。今世、彼はこの借りを返してもらうために、そばにやって来たのです。それまでの十年以上の間、彼の優しさは本当に僕だけに向けられたもので、彼はほとんどの同修を良く思っていなかったのです。しかし、今世、彼との出会いで、激しい恨みや露骨な嫌悪な態度は全くありませんでした。おそらく、これまでの十年余りの時間の中で、大小さまざまなことにおいて何度も彼を助け、忍耐してきた中で解決したと思います。ですので、彼と別れる時、わざわざ謝りに僕の所に来たのです。彼と別れてからは全く連絡を取っていませんし、彼のことを気にすることも一度もありませんでした。この悪縁は真修と大法と師父の慈悲なる加護の下で、知らぬ間に解消したのです。
もちろん、同修間の因果関係にも別な表現の仕方があります。僕が知っている2人の同修は知っている限りでは、彼らは前世、同時に大型の肉食動物に生まれ変わり、甲は乙を食べてしまいました。今世、2人が出合い、2人とも他人に対して慈悲が足りませんが、お互い異常に親しいのです。乙は甲を非常に大切にしており、甲がしっかり修煉していることを過大に評価しています。甲は乙と接している時、とても楽しく、自由気ままに行動しています。彼らは修煉のことも交流しますが、ほとんどは他の同修の欠点ばかり話し合うか、もしくは、一緒に飲んだり食べたりと、生活面のことばかり話し合っています。
乙は海外に出てきても党文化が根深く、洞察と相手の好みに合わせることが非常に得意です。甲は自分のいる国に詳しく、長い間ずっと貧乏な生活を送っており、誰にも愛されず、良く軽蔑されています。乙は暇な時間を持て余し、実家に帰りたい思いを甲と話し合う中で薄めていきます。仕事では甲に助けを求めたり、あるいは甲が代りに他の同修に助けを求めに言ったりします。甲は乙に褒めそやされていく中で、名利を重んじる心理や、顕示心理、自己中心的な心理がどんどん膨張していき、今までにない満足感を得られ、情の為に生きているようで浮かれています。
せっかくの機会に同修たちが集まって交流する時、この2人が口を開くとなかなか止まりません。自分たちの修煉についてはほんの少し触れただけで、ほとんどの他の同修の批判ばかりです。交流する度このような内容か、あるいは他の同修にどのように修煉するのかを指摘する話題になります。真相を伝えることにおいての交流をする時間は全くありません。誰かがその内の1人の話を止めようとすると、もう1人が擁護します。自分たちの機嫌にそぐわない時は、何度も助けてくれた同修に怒鳴ったりします。これはもはや法に背き、交流と真相を伝えることを妨害しているということに、この2人はまだ気づいていないのです。2人がすでに危険な状況であると誰もが知っています。
このような同修間においてのトラブルは、まさに前世の因果関係を利用して、同修たちを滅ぼそうとしている旧勢力の手段ではないでしょうか。様々な刑罰よりもこの方が分かりづらく、区別しにくいのです。逆に言えば、真修していない人はこの方法で淘汰されます。自分たちの生命に対して責任を取らなければなりません! 最後の最後になって、大法を妨害した大罪が山のようにのしかかって、生命が根源から滅ぼされる時に後悔しても、もう遅いのです!
常人社会において、因果関係から逃れられる人は誰もいません。善悪がどうあれ、法を真修してこそ、完全に解放されるのです。