観念を変えて 真に修める弟子になるには
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文╱中国大陸の大法弟子

 【明慧日本2017年8月13日】1995年5月から法輪大法を修煉し始めてから、ずっと師父に見守られ、本日まで歩んで来ました。師父のご恩に対する感謝の気持ちは言葉で言い尽くせません。

 東北の開墾地域で育てられた私は、小さい頃から、毎年必ず扁桃腺炎を起こしていました。当時は、毎回農場の小さな診療所から解熱薬をもらってきて、薬を飲めば病気はすぐに治りました。しかし、大きくなって来ると、特に高校に入ってからは薬はもう効かなくなり、時には、ペニシリンを3日間注射しても熱が下がらず、扁桃腺が真っ赤に脹れてとても痛くて辛くて大変でした。高校生の時に、ちょうど中国で気功ブームが巻き起こりました。私も様々な気功を煉り、気功の雑誌をたくさん読みました。大学に入ってから、気功についてさらに深く研究して、座禅を組み、4年の間密教の功を煉りました。しかし、気の次元から抜け出せず、病気も治りませんでした。

 その後、法輪功のことを知り、北京研究会の責任者に電話を掛けて、自ら法輪功を習いたいと伝えました。そして、北京軍区木材工場で師父の説法ビデオを見るように紹介され、1995年5月、私は正式に大法修煉の道を歩み始めました。

 法を学ぶことによって、業力の輪廻の道理が分かり、そして、師父が私達に宇宙の大法を伝授してくださっており、師父が初めて宇宙の特性「真・善・忍」を世間の人々に伝えられ、人々に天に上る梯子を残して下さったことを知りました。私はとても感激して、学法煉功に励み、さらにたくさんの法理も分かるようになりました。

 煉功と法を学ぶことによって、小さい頃からずっと私を苦しめて来た扁桃腺炎は、再び起きた事はありません。師父は私の体を浄化して下さいました。ある日、私は突然頭が痛くなり、痛みが何度も何度もやって来ました。ご飯も食べられず夜も眠れず、気を紛らせるため夜中に外でブラブラしていると、不審者と間違えられ警察官に尋問されました。しかし、3日目になると頭痛が突然に消えて、ぐっすり眠れるようになりました。目が覚めた時、とても清々しい気持ちになり、長年悩まされて来た偏頭痛も消えてなくなりました。

 観念を変えて、自分を修める

 修煉して以来、夫婦間における関門がとても多くありました。毎回妻の生理期間中、私達は必ず喧嘩し、必ず関門にぶつかりました。結婚してから22年間、本日まで小さな口論も含め、数え切れないほどのトラブルがあり、最近になると離婚のことも頭に浮かんで来るようになりました。

 義理の母が病気になったため、最近、東北の妻の実家のある町にやって来ました。ここの人は北京の人とかなり違っており、話はとてもストレートで何もかもお金、お金で、それ以外に話題がないのかと思われるほどお金に執着して、しかも、お互いに警戒心がとても強い人のように感じました。私はとても落ち込みました。その上、妻の態度も私の悩みの種でした。長年彼女は性格がほとんど変わらず、いつも私を怒鳴っており、このような状況がいつまで続くのだろうかとため息ばかりつく有様です。

 突然脳裏に師父の詩「修行の路は苦に非ず  生々世々の業力が阻む  思い切って業を消し、心性を修め  人身を永く得れば是れ佛祖」[1]が閃きました。

 私は突然悟りました。妻に感謝しなければならないと思いました。「すべての苦難は私自身の業力によるもので、妻のせいではないのです。私は自らの観念を変えるべきで、徹底的にその観念を変えて、これらのことを喜ばしいことだと思わなければならないのだ」と悟りました。

 私はいつも義母に「病気は業力を消去することで、喜ぶべきことなのだよ」と言っているのに、実際、自分の業力を消去するとなると、どうして喜ばしいと思わないで、いつも妻を怨んでいるのだろうかと思いました。だから、この関門はこれだけ長い間通り抜けなかったのです。義母は業力を根本的に理解しておらず、ずっと病気だと思い込みいつも薬を使いたくて、いつも心配そうな顔をしていました。一方、それに対して、私は、常人の観念を放下出来ず、いつも義母が間違っていると思い、優しさに欠けていました。

 「観念を変えて考えれば、業力を消去することが出来、同時に内に向けて探すことによって、心性も高められ、これ以上喜ぶことはあるのでしょうか。大法修煉はなんて幸せなことだろうか」と思うようになりました。

 師父は「真に修める弟子よ、わたしがあなたに教えたものは佛を修め、道を修めるための法なのです。皆さんは常人の中の利益が損なわれたことによって、わたしに苦を訴えており、自らの常人の中での執着心を放下できないことに苦悩しているのではありません。これが修煉なのでしょうか? 常人の心を放下できるかどうか、これは真に常人を超えることに向かっていくための至難の関なのです。真に修める弟子であれば誰でも超えなければならないもので、これは修煉者と常人の境界線です」[2]と説かれました。

 環境は心性によって変わり、外に向けて探すのは善ではない

 以前、私はずっと外へ、外へと向けて見ていました。同修の欠点ばかりに注目し、法を持って他人に要求し、内に向けて自らを探そうとしませんでした。私はいろんな人のいろんな欠点を見て、それぞれの欠点を知り尽くし、周りの同修の欠点を思うと、すべてはっきりと目に浮かんで来るのです。私は彼らのために焦り、怨み、不平不満を言いました。そして、義母が執着を放下しない為に焦り、妻が義母に対する情を手離さないため、旧勢力に隙きに乗じられるのではないかと心配し心を尽くし、病業に陥っている義母に内に向けて探すように助言し、北京からここへ来た時に、「自分だけを探し、同修を探さない」と自分に言い聞かせた事をすっかり忘れていました。その時、私の心は穏やかではありませんでした。実はこの私が直面したくない場面は、まさしく私の心の生き生きとした描写でした。それは私の優しくない心や私の問題を反映したものでした。相は心から生じると言われますが、怨む心があるから、私は何もかも目障りに感じました。

 他人の欠点ばかりを見るのは優しくない行為です。それはまるでオオカミが獲物を盗み見るようなもので、それは党文化の「相手を強制的に変えようとする」ものと同じです。一方、内に向けて探し、他人の長所を見るようにし、全面的で、寛容な態度で相手を評価し、相手の長所だけを見て相手を理解し、包容力を持って相手に対処するのは善の現れです。そこで、私は善を修めることに工夫しました。

 私は「もうお母さんを強制的に変えようとしない」と言った時、妻はとても喜びました。なぜなら、妻は私が強制的に義母を変えようとする態度に対して、ずっと反対していたからです。実は、義母の執着を絶えず探す私の行為こそが、最初から間違っていました。

 妻の叔母がやって来ました。叔母は独身で、ご飯を作ることを嫌っていました。私はいくら忙しくても、文句一つ言わず、黙って皆の食事を用意しました。私は善を修めなければならないからです。

 義母の1日3食の食事も全部私が作り、しかもとても美味しく作りました。義母の短所や欠点を見ないようにし、長所だけを見るようにしました。義母が法を得て修煉を始めるのは容易なことではなく、子供を3人も育て上げ、大変苦労した事を思うようにしました。すると、義母に対して優しくなり義母との間の隔たりもなくなり、心が軽やかになり疲れを感じなくなりました。視界がぱっと開け、いろいろと悟るようになりました。その瞬間、世間の人の苦しみをも感じ取れるようになりました。

 同修の執着を見れば、すぐに内に向けて探す

 「自分にも同じような執着があるから、他人の執着を見せられた」のです。それは師父の啓示でした。

 同修は協調人です。彼女は同修の欠点がなかなか直らないのを見て、とても焦って、恨んで、怒って、どうにもならない様子でした。「明らかに間違っていて、法に合致していないのに、どうして改めないのだろうか」と彼女はとても悩みました。

 「他人の欠点を掴んでなかなか手放さないのは善ではない。それによって、もし怨恨心が生まれるともっと大変なことになる。いつもネガティブなものばかりを見て、いつも他人の欠点ばかりを見て、自ら内に向けて探すことが出来なければ、それは大変疲れるのに決まっている。はっきり言えば、それは嫉妬心、怨恨心である。それは党文化の闘争意識で、それは善ではない」と私は理解していました。

 私は彼女に「それは優しくないですよ」と指摘すると、彼女は分かってくれませんでした。明らかに同修が間違っているから、直ちに厳しくその問題を指摘して、改めさせなければならないと思っているようでした。彼女のこのような気持ちを見て、「早くこの党文化を取り除いてほしい、大法を実証する仕事をする場合、粘り強く、優しく接しなければならないのでは」と心から思いました。

 しかし、私はすぐに「自ら内に向けて探さなければならない」、「彼女に強要してはいけない」と警戒しました。さもなければ、私も同じく善をやり遂げていない事になるのではないでしょうか。私はすぐに座り印を結んで、人に強要する心、優しくない心を取り除くように発正念をしました。しばらくしてからやっと落ち着きました。「外に向けて探すのは善ではない」、「そうすれば心性も高まらない」と正念を強めました。

 善を修める時、寛容な態度で相手の長所を見なければなりません。そして、『九評』をよく読んで、中国共産党の邪霊を取り除き、心を優しくしなければなりません。そうすれば、人を救う時にもっと効果的になるはずです。

 私達はいつも誰が正しいか、誰が正しくないかをはっきりさせたい時、それは執着していることになり、善ではない行為です。相手が正しいか、正しくないかは関係なく、私達は終始善を修め、同時に自分の心性の向上と執着を探さなければなりません。

 私の心が変わると、翌日、義母は私に市場に買い物に行くようにと促してくれました。自分の心性が向上したから、師父はまた私に人を救いに行かせるように按排して下さいました。その市場で私は7人に真相を伝えることができました。

 以上の私の交流で正しくない所があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 

 注:

 [1] 李洪志師父の詩: 『洪吟』「因果」
 [2] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「真修」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/21/351372.html)
 
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