文/山西省の大法弟子
【明慧日本2017年9月30日】同修から、よくこのような話を耳にします。「学法や煉功の際は十分に心を静めることができず、一思一念において自分を修めることができないとき、大量に学法して発正念の回数を増やしても、目立った効果が得られません」。私も同じでした。時には、正しくない一念を直ちに排斥していないがゆえに執着がさらに強くなり、結果的にある次元で徘徊してしまい、長くそこから突破できませんでした。
最近、師父の各地での説法を拝読する際、いくつかのことに気づくことができたので、それらを書き出して同修の皆さんと交流したいと思います。
大法を修煉してからの8年間、私は毎日の通勤途中で衆生に面と向かって真相を伝え、真相資料の搬送も3年あまりやってきました。しかし、今でも真相を伝える直前に緊張したり、不可解な心理的ストレスを感じてためらったりしますが、いざ真相を伝え始めると、これらのよくない物質はすっかり消え去ってしまうのです。しかし、この不可解な心理的ストレスとためらいのせいで、私は縁のある衆生を逃してしまったり、言うべきことを全部言えなかったりして、その後の気持ちはもっと辛いものでした。
数日前、師父の各地での説法で以下のことを学びました。「よくない考えはもちろん認めません。そうすると速く取り除くことができます。これも修は己にありて、功は師にあるのではありませんか。どうして、それを認めないでくださいと教えるのでしょうか。自分の手はあなたが動かせば、そのとおりに動きます。あなたの頭はあなたが動かせば、そのとおりに動きます。それはあなたであるからです。考えを静めようとしても、どうして静かになってくれないでしょうか。それはあなたではないからです」[1] 「なるほど、真相を伝える直前に私が感じたためらいや、真相を伝える過程で私が表出した興奮や落ち込み、意気消沈することも本当の自分ではなかった」と私は分かりました。
また、師父は「本当のあなたは清浄で、それらはすべて後天的に汚染されたものなので、それを取り除き、捨てようとしているのです。つまりそれを排斥しているのです」[1]ともおっしゃっています。それなら、私が心を静めて学法や煉功、または発正念を行うことができないとき、私の入静を妨げるすべての思想は私ではなく、取り除かれるべきものです!
私はテレビやウィーチャットを少しだけ見るなら大した問題ではないと時々思っていて、実際に、見る行為を行なったのは、真の自分ではないことを認識できませんでした。このような観念を早めに排斥しないと、テレビやウィーチャットに対して容易に執着を形成してしまうのです。
これらのことを認識してから、学法や煉功、または発正念の際に心が静まらなければ、私はすぐに師父の説法を思い出すようにしました。「本当のあなたは清浄で」、「修煉では必ず自分を見つけ、自分を修しなければなりません。もし自分をわきまえることができれば、これが私ではない、勝手にしなさい、私は入静するから、いつまで考えつづけるか見てみようと思ったとします。つまりそれをほかの人の考えだとしてします」[1]。それらのよくない考えをこのように排斥すれば、すぐに入静できました。効果はとても良かったです!
今は、もし真相を伝える前に様々なためらう考えが頭に現れたら、私はこう考えることにしています。「これは私ではない。私は清浄であるべきで、これを必ず取り除く!」 このように考えると、すぐに心の平穏を取り戻すことができて、三退を成功させる衆生の人数などを気にせず、穏やかな表情で真相を伝えることができるようになりました。このような状態は本当に良いのです! 今まで、私はこの落ち着いていて、穏やかで、かつ心地良い心理状態を感じたことはありませんでした。
一思一念において自分を修めるには、一思一念の中で真の自分を見つけなければならず、本当の自分ではないとはっきり分かっていれば、それを排斥し、取り除くべきです。こうすれば、より良く三つのことを行うことができます。
以上は最近の自分の次元での体得ですが、適切でない部分があればご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『ヨーロッパ法会での説法』