文/中国大陸の大法弟子
【明慧日本2017年10月14日】雨は万物を潤してから低い所に流れていき、太陽は山河を照しても恩返しを求めません。なぜなら、両者はともに世間の名利にとらわれず、世間の損得をも憂慮しません。利益を求める心があれば必ず金銭に動かされ、欲情を求める心があれば必ず世間の情に惑わされてしまいます。修煉者にまだ人心があれば、世俗のいかなるものにも動かされる可能性があるでしょう。
私たちは人間社会で修煉していますが、決して良い人になることを目的としておらず、この複雑な環境から超俗(世俗的な事柄にかかわらないで超然としていること)することを目的としているため、問題を見る視点と考える基点を人間社会に据えてはいけません。あたかも風は水上や山林を通り越してその中には入らず、紅塵(こうじん・ 俗人の住む世の中。また、
しかし、常人の中で修煉する最大の難所は、常人といかなる形式上の区別もおかず、ひたすら法を学び、絶えず思想の昇華を目指し、徐々に人間の観念、人間の思惟方式から離脱するところにあります。修煉によって人間社会での福分や心地よい生活を得ることができます。しかし、修煉の目的はこれらを得るためではなく、さらに高い次元へ昇華して行くためです。
しかし、多くの人は知らず知らずに、人間の思惟に沿って物事を考えてしまいます。「少し向上できたので、私の身体はもう少し良くなるはずだ。少し良く実行できたので、私はある程度の福報を得るはずだ。これほど多くの衆生を三退させたので、私の商売はもっと繁盛すべきだ。こんなに大法を堅く信じているので、家の事は順調に運ばれるべきだ」などなどと考えてしまいます。この類の考えはみな、超常的な修煉を人間社会の損得と結びつけています。実際、この両者はまったく関わりがありません。しかし、一部の修煉者はどうしてもこのように考えてしまうのです。特に人心が強い修煉者は知らず知らずに、修煉を常人の利得を得る手段と見なしています。これは修煉を持って神とかけ引きをすることに等しく、基点が人間の次元に据えられていて、常人の利得を得るための修煉であり、結果はもちろん邪道に陥ってしまいます。
中国には、「買椟還珠」(中国のある楚の人が真珠を美しい箱に入れて鄭の人に売ろうとしたところ、鄭の人は箱だけを買い取って真珠を返したという、眼識がなくて取捨選択を誤る)という物語があります。箱は真珠の入れ物に過ぎません。しかし、購入者は取捨を誤って包装だけを買って、真の価値のある真珠を捨ててしまいました。これと同じく、一部の修煉者は元神の基盤である肉体、および肉体の存在する空間にあるすべてを重く見てしまい、かえって返本帰真という修煉の根本を忘れてしまいました。
修煉はどれほど神聖かつ厳粛なことでしょう! ゆえに、物事を実行する際は、自分の動機や基点(実行しようとしていることがものすごく良いことだと思われても)を精査すべきです。人心や私欲を放下して初めて修煉の道を正しく、よりよく歩んでいくことができます!
現段階での少しの体得ですが、妥当でない部分があれば同修の慈悲なるご指摘をお願いします。