文/吉林省の大法弟子
【明慧日本2018年1月18日】私は1998年2月に法輪大法を修煉し始めました。それより以前は大きな病気にかかったことはありませんでしたが、健康で丈夫な体でもありませんでした。また、気が短く、主人と喧嘩する時は良くテーブルをひっくり返したり、包丁を持ち出していました。悪気はなかったものの、怒り出すと何でもやりかねなかったため、みんなが怖がっていました。昔の事を思い出すと、今でも情けなく感じます。このような私を変えたのは大法でした。大法を修煉してから、性格が根本的に変わったのです。
一、修煉して病が治る
大法を修煉したばかりで、まだ法とは何かも理解していない頃、師父が業力を消してくださいました。ある日、煉功を終えて、家路に急いでいる時、急に左足から力が抜けていき、身体がふらつき始めたのです。その時は、足がしびれているのだろうと思ったので、さほど気にしませんでした。しかし、この状態が日に日に悪化していき、少なからず怯えはじめました。古い学習者は、これは業力が消えていく症状であると教えてくれましたが、何日経過しても治らず、それどころか、左足の感覚を完全に失いました。
体が一向に治らないため、私の機嫌もますます悪くなっていき、1カ月後、左足だけが異常に細くなってしまいました。これ以上耐えられなかったので、結局、吉林市の病院に行きました。診断の結果、神経麻痺による筋肉萎縮でした。しばらく治療を受けましたが、一向に治らず、今後は膝をついたり、しゃがんだり、足を冷やしたりしてはいけないと医者に言われました。それからは、点滴を打っても、薬を飲んでも、お灸をしても、漢方薬を服用しても全く効果が現れず、真夏でも、裏起毛の厚いズボンを穿いて過ごしていました。
しばらく経ったある日、煉功場に行こうと同修に誘われました。しかし、病に苦しめられて、ずっと機嫌の悪い私は「煉功したら今よりもっとひどくなって、半身不随になるわ!」と同修に八つ当たりしました。まだ修煉の浅い私は大法に対する誤解が深く、自分の症状が当地で法を得ようとしている衆生にとって、それは大きな影響を与えてしまいました。すっかり落ち込んだ私を見て、夫は気分転換に両親の所に行かないかと誘ってくれました。お義父さんもお義母さんも大法を修煉していますが、他に行くあてもなかったので、あまり行きたくはありませんでしたが両親を訪ねました。このことを知った同修は皆で一緒に両親の家で学法することにしました。彼らが法を読んでいるのを隣で抵抗する心を持ちながらも聞いていました。すると、少しずつ、法が頭の中に入ってきました。そして、漸くしてわかりました。法輪功とは佛法で、宇宙の大法なのです! 師父が修煉者の身体の調整をしてくださっているので、その過程において多少の苦を嘗めなければなりません。このことを理解した私は再び修煉することを決心しました。
あれは冬のある日の出来事でした。煉功する同修が多いため、皆床に座布団を置いてその上で座禅していましたが、私の足が冷えてはいけないと思った同修たちは、ベッドの上で座禅した方が良いと心配してくれました。他の同修たちは綿入りの暖かそうなズボンをはいていますが、私は薄めの裏起毛のズボンをはいていました。足を冷やさない方が良いのではないかと、考えもしませんでした。これは佛法修煉だからです。「長く座禅できない時は無理しなくてもいいよ」と同修に言われましたが、私は何も言いませんでした。自分は大法修煉者だから、できると思いました。心の底から師父と大法を信じているので、心性も高まりました。すると、師父は、これまで1年余り苦しんでいた病気を、数日の間で全てを取り除いてくださり、私は健康で病のない体になりました。同修と衆生が私の身に起きた奇跡をみることができたので、以前、自分が大法に与えた損失も挽回できたと思います。このような弟子をいつまでも見守ってくださっている師父に感謝いたします。
二、観念を変え、夫も大法を修煉し始める
大法を修煉してから、私は法の要求に従って自分を厳しく律し、短気な性格から穏やか性格に変わりました。
しかし、夫の態度は一夜にして180度逆転しました。毎日お酒に酔い、365日ほぼ毎日外食をしています。会社の上司からいつも飲み会に誘われ、その度に必ず参加し、様々な業界の人と知り合いになり、様々な人と毎日飲みに行っています。夫の話によると、「これこそ本当の中国共産国家の公務員の姿だ!」と言うのです。
夫がそのような日々を過ごしていた時、私は広い心をもち、しっかり精進しなければならなかったのですが、しかし、当時の私はこの点に気づきませんでした。その頃、夫に助言しても何の効果も現れず、私はイライラしていました。しかし学法を通して、だんだんとあることを悟りました。もしかすると、前世、あるいは前前世で、夫に対して何か悪い事をしたのかもしれません。たから今世で私に対して、このような態度をとっているのではないでしょうか。これは因果応報なのだ。このように考えれば、夫への恨みがなくなりました。けれども、日に日に堕落していく夫の姿を見て、この生命に対し、憐れみの気持ちが生じ、もはや、大法しかない! 師父しか夫を救うことはできないと思いました。そこで、法を得られるようにと思って、夫が大法の素晴らしさに気づくように、私はひたすら夫のために世話をしました。それなのに、「そんなわざとらしいことをするな!」と言われました。これを聞いて、私は悔しく思いました。これほど夫のためにと思って一生懸命尽くしているのに、なぜこのような目にあわなければならないのでしょうか。同じことを何回も言われて、「もしかすると、法に合わない言動があったのかもしれない。しかし、夫に法を得させようとするこの考えは間違っていないはず。それでは、私は一体どこに間違いがあったのでしょう、と考えました。
ある日、師父の説法を勉強している時、ある段落の説法を読んで悟りました。「今まで私たちは何につけても、常に次のように考えています。私は如何にすれば良く法を学べるでしょうか、如何にすれば大法のために何かができるのでしょうか。どのように己を高めるのでしょうか。どのようににすれば更によく行えるのでしょうか。何があっても法の勉強をしていることを感じ取り、身が大法の中に 置かれている一員と感じ取ることが出来なかったのです。この一年が経って、私は皆さんが完全に変わったと感じました。今までのような考えはなくなりまし た。皆さんは大法のために何かをやっていても、どんなことをしている時であっても、自分を大法の中に置くことが出来ました。今までのような私が大法の為に 何かをしたいとか、自分の次元を高めたいとかといったような考えはもはやありません」[1]この段落の説法を読んで、私たちの修煉とは、無条件に自分を大法に同化することで、真面目に修煉することは自分自身の責任であり、条件を付けてはならないのです。そして、夫がなぜ私の良さを認めないのか分かりました。これまでの私の行いには条件があり、何かしらの目的を持っていたからなのです。表面上は夫のためにと思って、自分の言動は法に背いていないように見えますが、実は何かの目的を持って、知らず知らずに何かを求めていたのです。
このことを悟ってから、自分の観念が変わりました。夫の言動に目をむけなくなり、何かを求めることもなくなりました。ただ自分の考えと言動の一つ一つを法理と照らし合わせながら自らを正していき、すべきことをきちんと行うようにしています。そうしていると、知らないうちに夫も変わりました。なんと、大法を修煉し始めたのです。そして、私たちの修煉状況もますます良くなっています。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『導航』「北米五大湖地区法会での説法」