修煉の道のり
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文/イギリスの大法弟子

 【明慧日本2018年2月17日】

 修煉後、疾病が消えた

 法輪大法の修煉者になる前の私は身体が悪くて、常に疲れているように見えていました。双子を出産後、私は皮膚炎を患い、そして長年浮腫に悩まされて靴が履けず、服が着れないときが度々ありました。私の雇用主が個人の医療保険に入っているので、私はそれを利用して診察を受けに行き、長年、ずっと特殊な薬を飲んでいても効果がありませんでした。その後、両親の勧めで漢方薬も飲んでみましたが、依然として根治できませんでした。しかし、2005年に法輪大法の修煉者になり、五式の功法を煉り始めてから、私の病状は徐々に消えていきました。

 業を滅する試練と正念

 2013年5月から、突然、私は長期に渡る魔難に陥ってしまいました。病業による妨害で、私は3年間ほど衆生を救うことができず、これが業力による妨害だと悟りました。実は、邪悪が私の正念の足りなさ、そして修煉における向上が遅いという漏れの隙に乗じて、業力の形で私を長く妨害していたと思います。

 ある日、仕事をしに行こうとした私は突然くらくらしてきて、脈もどんどん速くなって、周りのすべてが遙か遠くにあるように見えて、恐ろしい事が起きたのではないかと心配しました。体内では、大出血が起きていると感じました。家から出られない私はマネージャーに電話をかけて、「病気」の情況を伝えました。「病気」を認めた私は、邪悪の妨害を許したことになったのでしょうか?

 師父は『轉法輪』の中でこうおっしゃっています。「煉功者としてあなたがいつも病気のことが頭から離れなければ、それは、求めること、病気を求めることにほかならず、そうなると病気が本当に身体の中に侵入してきます。煉功者としては心性が高くなければなりません。いつも病気ではないかと怯える必要はありません。病気を恐れるのも執着心で、同じように修煉者に面倒なことをもたらします」

 日に日に、私の身体は虚弱になる一方で、起床もできず、学法や煉功もできなくなりました。堪え難い苦痛は身体の至る所を刺していました。邪悪の迫害を認めた私は自分がもう生きていけないだろうと考えていて、何も食べることができず、毎晩、力が尽きるまで泣いてからやっと眠りに入りました。私は娘たちに自分が経験していることを教えませんでした。教えてしまえば、彼女たちはきっとすぐさま私を病院に連れて行くでしょう。夫と同修たちは私のために正念を発して、旧勢力の妨害を否定し、師父と大法を信じるように激励してくれました。

 「病気になった」という観念を捨てなければならないと分かった私はこの苦境を乗り越えて邪悪の妨害も否定し、ロンドンで行われる「5・13」を祝うイベントに参加しようと決心しました。夫は私に付き添って、必要時に手伝ってくれました。蒼白で無気力な私はずっと震えが止まらず、顔と爪には少しの血色も見られませんでした。イベントの集合場所に向かう途中、私は一歩を踏み出すのも大変で、目的地がすごく遠く感じました。集合場所に着いたとき、2人の同修は私が灰色に見えると言いました。私は煉功を試みましたが気力がありませんでした。私が功法を演じる同修たちのすぐそばに立っていたため、ある同修は私の容体が常人に悪い印象を残しかねませんと言いました。私はその場で自信を失ってしまい、どこかに隠れたい気持ちでした。夫と交流した後、彼は蓮の折り方を子供たちに教える同修の手伝いを提案しました。私は喜んでその提案を受け入れ、強いエネルギーが満ちている雰囲気に包まれていたと感じました。

 ニューヨーク法会への参加まで、あと5日しか残っていませんでした。私は日々自分に師父が要求されている三つのことの実行を促し、難しい過程でしたが、毎日五式の功法の完成を試みました。各式の功法を煉り終える度に、私は全身がずぶ濡れになって、汗が額から指先へと滴したた)っていました。動作の一つ一つが呼吸困難をもたらしていましたが、それでも私は邪悪による迫害に屈しませんでした。

 ニューヨークに向かう日の空港で、私はある奇妙な感覚を体験しました。周囲のすべてが依然として遙か遠くにあるような感じで、身体の痛みがさらに増してきたと感じた私はずっと涙を流していました。夫はそばで正念を発してくれました。搭乗口に立っていた私は、同じ飛行機に搭乗する数人の同修が見えた瞬間、頭上から風が吹き抜けていて、頭が瞬時に明晰になったと感じました。体内の痛みは変わっていませんが、出血は止んだ気がします。ものを食べるのも少し楽になりました。師父は私の身体を浄化して下さいました。

 神韻の宣伝に参加する

 神韻を宣伝する期間中、私は体内の堪え難い苦痛に耐えて、毎日嘔吐していました。邪悪は私が衆生を救うことを阻止しようとしましたが、私は邪悪の妨害を否定し、神韻のチラシを配ったり、ショッピングセンターに設けられていたブースでずっと活躍していました。

 住宅街でチラシを配るとき、私は持久力が増してきたと感じました。時々、私は笑みを浮かべて、多く歩くことは天国楽団のメンバーにとってとてもいい練習だと自分に言いました。そして、チラシを配りながら、家主たちが家の前の庭に出ていることを願いました。そうなれば、私は面と向かって(神韻を)紹介することができるからです。

 ある日、家の前のガーデンで植物を整理している女性に出会いました。私はすぐに神韻のことを紹介せず、彼女が植えている植物について聞きました。親切に話してくれた後、彼女は突然、何が私をここに導いたのかと聞きました。そこで、私は彼女に神韻について紹介しました。彼女は私を家に招き、神韻のプロモーションビデオを一緒に鑑賞しながら、孫娘がダンスや音楽がすごく好きだと話してくれました。

 別の日に、ある家主は車庫で1本の木材の測量に注意深く取り掛かっていました。私は彼の邪魔をせず、ただチラシを彼の門の前に置きたい意思を仕草で示しました。そこから離れながら、どうすれば彼の注意力を引き付けて神韻を紹介できるかと考えた私は、西洋人が天気の話題が好むことを思い出して、天気のことで彼に挨拶をすると、彼はすぐに車庫から出てきて、その日とその1週間の天気について話し始めました。その後、「ここに来たきっかけは?」と聞かれて、私はそれをチャンスに彼に神韻を紹介しました。

 内に向けて探す

 「もし、三つのことをしっかり実行していなければ、私は自分を大法弟子と称することができるだろうか? 未だに放下していない執着心は何だろうか?」と内に向けて探す過程で、私は自分が今でも常人の仕事における名誉を追求していると気づきました。大法を実証できるもっと多くの時間が得られるために、私は早期退職の願いを会社に出しましたが、却下されました。それに対して不快感を覚えたのも執着だと気付いた私は、ニューヨーク法会に参加しに行く直前に、人事部のマネージャーから電話を受けて、「この前の却下通知が間違いでした。休暇を取られていた間に退職願いが許可されました」と言われました。離職が5カ月ほど遅れましたが、私はこの常人の間違いに喜びを感じました。

 今年、私は3カ月のうちに3回の転倒事故を経験し、内に向けて探した後、自分の怠惰と安逸心を見つけました。私は早朝の発正念をしておらず、あるいは正念を発していても、うとうとしていた事実を認めようとしませんでした。これは深刻な問題です。旧勢力はこの点を利用して、私と周りの人を操ってしまうことがあります。

 1回目は、シャワーを浴びた直後に滑って倒れたことでした。倒れていく際、私の頭は確かに蛇口に向けていたのですが(本当にそうであれば、非常に危険でした)、なぜか頭が壁の方に誘導されて、壁にぶつけた後、そのまま浴槽に滑り込んでしまいました。今回の事故で私は驚いたことも、怪我したこともなく、ただ「目が覚めた」感じでした。これが「修煉において早く向上し、三つのことをしっかり行なうように」という注意喚起だと悟りました。

 1カ月後、2回目の事故が発生しました。台所からダイニングテーブルにスープを運ぶ際、私は肉汁をプラスチック製の床材に少し溢(こぼ)したことに気づきませんでした。台所にご飯とお箸を取りに行く際は運良くそこを避けましたが、ダイニングに戻るとき、私は肉汁を踏んでしまいました。私の身体全体は重々しく床に倒れていき、茶碗が割れてご飯とお箸もあっちこっちに飛んでいって、床に少しの血痕も残りました。夫は私の怪我の状況が分からないので、動かないようにと言いました。私は彼の言葉を無視して、「なぜ床を掃除した後にきちんと水を拭き取らないのか」と非難しました。夫はまたも「動かないで、怪我の状況を見させて」と言いました。私はずっと怒って彼を非難し続けました。私には大した怪我がないと分かった夫は、「床にあるのは水なのか、それとも肉汁なのかよく見て」と言いました。肉汁だと分かっても、私は依然として外に向けて探していました。その日の転倒で、私の耳は軽く掠(かす)れて、唇にはあざができてしまいました。それが私に対する2回目の注意喚起でした。

 3回目の事故は車の整備会社で起きました。車を点検しに行った日に、そこは内装工事が行われていました。トイレに行く時、私は作業員たちの作業場を通らなければなりません。作業場の床には、私をつまづかせたり、滑らせたりするようなものは何もありませんでした。なぜか、そこで私は3回もつまづいて、相当長い距離を滑ってからやっと止まりました。怪我をしなかったものの、とても腹を立てていた私はまたも外に向けて探し、他人を叱責しました。

 師父はこの間、病業から私を救って下さいました。しかし、その後の私は修煉が緩んでいるにもかかわらず、それが当たり前だとさえ思っていました。早朝の発正念を必ず行なうと誓いながら、私はやはりその最中で寝ていました。やり遂げると言いながら、それが口に留まるだけで、行動に移っていませんでした。何回も転倒事故を経験した後、「長い間滑り落ちていたので、早く起き上がって精進の状態に戻り、正念で衆生を救わなければならない」と師父が私に注意を促されていると悟りました。

 最近、『轉法輪』を開く度に、目に入ってくるのは必ず「心性を向上させる」という小見出しです。これは偶然ではないと思います。きっと、師父は私に道を正しく歩み、修煉において精進するように促されていると思います。

 師父に感謝いたします!
 同修の皆さんに感謝します!

(二〇一七年ヨーロッパ法会での発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/10/6/355092.html)
 
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