情から抜け出し 個々の生命を尊重する
■ 印刷版
 

文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2018年3月28日】修煉を始めて以来、私はまだ情に関して徹底的に認識することができていません。自我を中心に、私の観念、私の家族、私の何々というように情緒に動かされて、物事の是非や常人の理に捉われてきました。しかも、自我を強調すればするほどややこしい事が増え、苛々(いらいら)もますます募ってきます。最近のいくつかの出来事を通じて、よりはっきりした認識が得られ、自我を放下して情から抜け出し、物事の是非に捉われない心の穏やかさと素晴らしい境地を実感しました。

 最近、姑は家の建て替えのため、しばらく私の家に住むことになりました。ある朝、起床してリビングに行くと、夫が布団をたたまずに姑とお喋りしているのを見て、私は布団をたたみ始めました。すると、夫は姑の目の前で私を叱責し始めました。「お前は暇なのか? 布団を干しているのに、誰がお前にたためと頼んだ? やるべきことを何一つしないくせに!」。急にこう言われて、私は心に針を刺されたようにビクッとしました。当時の私はこれらのことを家事だと思い、彼の気性が荒いとしか思っておらず、関が来たとは思いませんでした。姑が目の前にいるので、私は「あなたが布団を干しているとは知らなかったわ。普段あなたがたたまない時、いつも私がたたんできたので」と弁明しました。しかし、私の弁明を聞いた夫はさらに激怒し、顔色を変えて私に楯突いてきました。

 刺激を受けた私は表向き我慢して、極めて慎重な口調で夫に言いました。「話があるならゆっくり話しましょう。お母さんは滅多に来ないから、あなたにずっとこんなに叫ばれたら耐えられませんよ。話にけりをつけましょう」と言い終えた途端に、夫は私に罵声を浴びせ始め、私の鼻先を指差しながら「黙れ! 黙れ!」と言い出し、これ以上言うと殴るぞと言わんばかりの様子でした。私は彼を刺激してはならないと思って、何も言い返しませんでした。彼は手を下ろしながら「ことが終わったら、お前も口を閉じるべきだろう? まだぶつぶつと言い返したりして」と言いました。彼が一歩退いた後、私は悔しい思いが募り、また弁明しようとしました。そう思った途端に、今度夫は私の目の前に飛んできて、私の鼻を指差しながら「黙れ! 黙れと言っただろうが!」と叫びました。私が少し冷静になると、彼はまた退きました。しかし、私はどうしても悔しい思いを抑え切れず、法に則って認識を高めることができず、3回目に言い返そうとした時、彼は「この家から出て行け! ダメなら離婚だ!」と捨て台詞(すてぜりふ)を残して、出勤して行きました。

 心を深く傷つけられた私は自分の面子や自尊心、頼ってきた家庭、そして信頼してきた夫を一気に失くしたと感じて、泣き崩れてしまいました。

 冷静になってから、私は徹底的に自己反省しました。「長年修煉してきて、どうして他人の前で物事をこのようにさせてしまったのか? 普段よく我慢していたのに、今日はどうしたのか? 本当に意気地がない」。しかし、平素の自分の行ないを考えてみると、分かる気がしてきました。普段修める中でできた忍は、家庭や夫婦間の情の中での忍であって、トラブルが起きた時はそれが家事だと思い、彼の気性が良くないから私が譲れば問題はないと考えて、家庭または情から抜け出して問題を考えたことがなく、法理に沿って自分を修めることもなく、常に表面上の彼の不足を気にして、物事の中に陥って是非を考えていたため(実はその状況も按排されたことで、彼も操られている)、自分の修煉も浅はかで形式的なものに留まっていました。 

 この関をその場で乗り越えることはできませんでしたが、私が徹底的に目覚めるきっかけにはなりました。私は今まで自分を縛ってきた情を放下し、夫に何かを求めたり報いを望む気持ちも放下し、以前と違って、彼はこうであるべきだ、ああであるべきだなどと考えなくなり、以下の師父の教えも分かるようになりました。「この情を断ち切らなければ、修煉することはできません。情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです。もっとも、これをいっぺんに断ち切るのは容易なことではありません。修煉は長い道のりで、徐々に自分の執着心を切り捨てていく過程です。とはいえ、自分自身を厳しく律しなければなりません」[1]

 この関が私の修煉の道のりにおける転換点となりました。その後、同じ類いのトラブルに何回か遭遇しましたが、頭を冷静に保ち、弁明しないと自分に言い聞かせることができて、トラブルも自然に解消されました。

 もう一つの出来事がありました。同修の甲さんは私と協力し合う同修の乙さんに、私に関するいくつかの意見や見解を言いました。乙さんは私が間違いを犯すことを心配し、事実確認をしに来ました。まったく事実無根(誤報)の話を聞いた私は心が動じて不可解に思いました。「私にレッテルを貼っているのではないか? どうして私にこんなことをするの? どうしてこんなにややこしいの?」。私の考えはこのことの表面的な是非から離れたことがないため、内に向けて探す力も弱いものでした。最初は無理やり我慢して、出てくるよくない考えをできるだけ抑えることにしました。再び内に向けて探す時、「相手を理解すべきで、怨まず、心を動じるべきではない」と考えました。しかし、心性がまだ向上しておらず、取り除くべき心も取り除いていないため、イライラする気持ちがまた出てくるので、私はできるだけマイナスの考えを抑え、自分を正すことに努めました。3回目に内に向けて探す時、やっと自分自身の問題を真に探し始めました。「旧勢力は一体私のどの執着を理由に、このような按排をしたのだろうか?」。最初に思いついたのは虚栄心でした。小さい時から、私は他人に背後から議論されることを恐れていました。また、自分を極力保護したい面子を重んじる心も見つけました。さらに私はトラブルを嫌がる一方、トラブルに遭えば牛の角先に向かって潜り込むようなことも好きでした。考えてみれば、他人はただ話してみただけなのに、私は自らムキになって簡単なことを複雑にさせてしまい、自分自身にめちゃくちゃな状況をもたらしたのです。

 根源を辿れば、やはり自我を放下できないという心が原因だと思います。甲さんでなくても、旧勢力はきっと私のこの心を狙って他の同修を利用してトラブルを設けたでしょう。そもそも同修の問題ではありません。しかし、私自身はこの問題を重く見てしまい、問題の是非に散々執着してからやっと内に向けて探し、問題を正しく対処できず、この向上のチャンスを活かせませんでした。

 煉功者として、トラブルを排斥し恐れていたのであれば、どうして向上できるでしょうか? 自我に執着すれば常人の心に容易に動かされることになり、修煉者の基準に達することができなければ圓満成就も程遠くなります。私は修煉の厳粛性と、自我という心を取り除かないことの危険性と危害がはっきり分かりました。法理が分かった私は外を見ず、また他人の不足を考えているのではないかと常に自分の思想を見ることにしました。真心から自我を放下したいという願望が芽生えたとき、私はこの世を生きるどの生命も容易ではなく、皆が法を得に来て三界に迷い込んでしまった高次元の生命で、互いに助け合い愛護すべきと感じました。再び自分の中にいる自我を見てみると、それがいかにちっぽけで微々たるものかが分かりました! またトラブルに遭う時、私は自ら他人の大変さと境遇を考慮し、各個人の考えを理解して尊重するようになり、他人に対して観念を持たず怨まず、自分を変えることに努めました。相手の立場から物事を考えることができたとき、私の気持ちは平然として楽しいものになりました。

 家庭内でもう一つの出来事がありました。姉と兄は普段仲がいいのですが、年末に母の家で食事をするときはいつも必ず喧嘩をし、原因も大したことではなく、時々一言が喧嘩の火種になって、ほぼ毎年繰り返しました。 私も毎年彼らの後ろにへばりつき、特に80歳を超えた母が彼らに挟まれて、焦る様子を見る度に情に動かされて、痛しかゆしでため息をつくしかありませんでした。表向き彼らの気性が良くないのが原因に見えますが、実質は因果によるものだと知りつつ、私はこの件において法に則って自分を向上させることができませんでした。今年、2人はまたポーカー遊びで喧嘩になり、その場にいなかった私は息子から事の一部始終を聞きました。私の心はまた不安に駆られ、これを怨んだりあれを怨んだりして、母が倒れてしまうのではないかと心配し、彼らが親不孝だと愚痴を溢しました。数日後、母が訪ねて来たとき、私は早速くれぐれも怒りを溜め込まないようにと伝え、彼らが仲直りしたかと聞きました。母は別にこのことを気にしていない様子で、2人はとっくに仲直りしたと言いました。普段と変わらない母の様子を見て、私はハッと目覚めました。「この姉弟の恩讐は終わるべき時が来たら必ず終わり、きっと按排がある。これは修煉者である私の心性に対する試練でもある」。しかし、私はずっと悟れず、自分を傍観者と見なして2人の喧嘩を見たくないと思い、見えたら止めようと中に絡んでしまい、終いには2人に対して観念まで形成してしまいました。

 深く掘り下げていくと、自分は未だ人間の情に浸かっているため、情に動揺されないことがありえるのでしょうか? 事の是非に陥ってどうして平常心を保ち、観念を生じさせることがありえるでしょうか? 往々にして私たちは社会または家庭での自分の役柄の現実味に気を取られ過ぎて、自分を常人と混同して、情にきつく縛られて抜け出せなくなってしまう一方で、自分や家族、そして常人の本当の身分が法を得るためにきている高次元の生命であることを忘れてしまいます。随時に自分を修煉者として見なすことができていなければ、どうして向上し、圓満成就できるのでしょうか? この法理が分かってから心は瞬時に明るく、楽になりました。

 昨年の年末、兄が電話をかけてきて「母の家にまた泥棒が入り、門が壊されて水道管(冬の間、誰も住んでいない)も破裂した。骨董品の置時計も盗まれた」と言いました。携帯電話を切った後、一生涯苦労してきた80歳の母の様子が頭に浮かんできて、悲しさやマイナスの思考が出てきた瞬間、私ははっと目覚めました。良いことも悪いこともみんな良いことです。年老いた母がこの形で前世の債務を返すことができれば、これは良いことではありませんか? 常人のことわざにも「散財して、禍を払う」というのがあって、別に悲しく思うことは何もありません。そう思うと、心が楽になり泥棒のことも恨まなくなりました。逆に言えば、泥棒も衆生なので、慈悲心を持って考えてあげるべきと思いました。

 大法の法理に導かれて私は長年の悩みと気がかりから解放され、以前無理やり我慢した時とまったく違う感覚を覚えました。情から抜け出して家族を衆生と見なし、トラブルの表面の是非に捉われず、修煉者の角度から問題を考えることは、他人に迷惑をかけず、自分自身にもトラブルをもたらさず、冷静かつ智慧のある対処法で、誰にも良く善意のあるものです。それは修煉者の生命に対する慈悲で、常人の次元を超越するさらなる高尚な境地なのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/10/22/336608.html )
 
関連文章