夢の中で見たこと 「発正念をしないことの教訓」
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文╱米国の大法弟子

 【明慧日本2018年6月4日】ある日、夢の中で、私が道を急いでいたところ、ちょうど発正念の時間になりました。本来足を止めて発正念をすべきでしたが、しかし、私は「後に回そう」とごまかしてしませんでした。突然、あの世界はすべてが止まり、時間も止まってしまい、動けるのは私だけになりました。

 自分が時間通りに発正念をしなかったため、あの世界のすべてが止まってしまい、そして、もう正される機会を永遠に失ってしまいました。なぜならば、法を正すことがすでにやって来て、いかなる変更する機会もなくなったからです。そして、ほぼ同時に、その空間のすべてのものが跡形もなく消えてなくなり、灰すら残らず、なにもかもなくなってしまいました。その後、師父が顕れられましたが、一言もおっしゃらず、とても厳粛な眼差しで私を眺めておられました。

 多くの学習者は発正念を重視していません。理由は効果をあまり感じていないからだと言います。確かにその効果は私達がいるこの空間にあまり現れて来ませんが、それは私達が担当する他の幾重にも重なる空間に現れているはずです。

 法を正す勢いが幾重にも重なる空間を通り抜けて、私達が担当する空間に到達した時、もし、私達がそれに応じて、正時に正念を発していなければ、あの世界に暮らす無数無量の命にとって、それは壊滅的な災難になるでしょう。法を正すのがこのように幾重にも重なる空間を通り抜けて、この世に到着したら、すべて終わってしまいます。そうなった時、私達はいったいどれだけの命を連れて帰ることが出来るでしょうか? それらの世界は、私達が衆生を救おうと誓っていたから、師父は私達に恩恵として与えてくださったのではないでしょうか? その中の生命は、みな長い歴史と素晴らしい経験を持っていて、今回の法を正す中で、彼らは私達大法弟子にすべての希望を託しました。私達の人間の世界での何気ない懈怠は、他の空間では取り返しのつかない損失になりかねません。

 仏教のミラレパ仏陀が修行をした時、彼の師父は彼に家を作らせ、出来上がったら壊させ、そしてまた作らせ、こうして繰り返して修行させました。しかし、彼は自分の師父に対して少しの疑いも持ちませんでした。一方、師父が私達にやらせられたことに無意味なことは一つもありません。なのに、私達はなかなかやり遂げることができません。

 大法弟子がしっかりやらなければならない三つのことの中に、発正念をすることは時間が一番短く、最も軽視されやすいことです。しかし、三つのことの一つですので、その重要性も同じく三分の一を占めているのです! 発正念の効果が、私達に見えなくても、理性的に考えれば分かるはずです。もし、見えてからやるとするならば、それは、見えてから初めて修煉をするような人と同じではないでしょうか? 「悟りが先にあって見えるのは後のことで」[1]と師父は説かれました。

 1日4回正時に発正念をすることは、年間に換算すると1460回に過ぎず、法を正す20年間の間でも、合わせて3万回を超えていません。宇宙の歴史の中で、ただ一回のこの上なく栄耀な正邪の戦いは、大変貴重な機会で、あっという間に終わってしまうのです。将来、歴史のこの瞬間を開いた時、私達はその中にいなかったことが分かり、本来私達がいるはずのその場所が空いていて、一掃すべき邪悪がまだ残存して、衆生とその他の大法弟子を害していたと分かれば、私達はどのような顔をして衆生に会えるのでしょうか? もし、兵士がいつも戦いに参戦せず、教師がいつも欠勤していれば、それは不合格者ではないでしょうか?

 次元の限りがありますので、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「何のために見えないのか」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/5/27/368055.html)
 
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