他者の振る舞いを見て 自分を探す
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年8月15日】生活のなかで、気をつけて観察すれば他人の良くない言動がよく見えますが、それはきっと自分が修めるべき執着です。もし留意しなければ、自分の執着は影のようにずっとついてきます。

 師父は「修煉とは人心を修め、自分自身を修めるということです。問題に遭遇したとき、トラブルや困難、そして理不尽な扱いを受けたときでも、自分自身の問題を探し、内に向けて探すことができれば、これこそ真に修煉していることになり」[1] と説かれました。自分の正念が強くなければ、後天的に形成された観念、思想、執着に左右されてしまい、少しずつ自分の考えがはっきりしなくなり、人間社会の物事に夢中になってしまいます。最近悟りましたが、そもそも修煉者は人間社会のなかで修煉するにおいて、師父はとっくに弟子らが迷ってしまうことが見えておられたため、他人の振る舞いを利用して、逆の角度から自分を探し、自分を振り返ることにより自分を修めるようにさせられました。なぜなら、私達に見えたもの、聞こえたこと、考え及んだことはすべて、師父は他人を私達の鏡として利用して、まだ修めきれてない私達の人心を照らしてくださっています。それらを認識し、見つけだし、修めさせるためだからです。

 以前、如何に自分を修めればよいかわからず、如何にうちに向けて探すべきかわからず、常に人間の考えでまわりの人と物事を見ていたことがあります。すべて自分の考え通りにいかず、気に入らないとき、他人の振る舞いをみて自分を照らし、自分を探しませんでした。

 師父は「大法弟子として自分の修煉を緩めてはならず、自分をしっかり修めることに励むのみであり、乱れれば乱れるほど、乱れている中で自分を修めることができ、魔難や不愉快なことに遭えば遭うほど、『このすべては私の修煉と向上のための階段だ』と逆の角度から問題を見るようにすべきです。皆さん、そうではありませんか?」[2] と説かれました。

 私はやっと目覚めました。他人の振る舞いのなかのよくない言動が私に見えたのは、ほかでもなく私に同じ人心、執着があるからであり、師父は他人の振る舞いを私に見せてくださり、私に後天的に形成されたその偽の私があることを認識させてくださったのです。もし私達がそのとき、このことを認識でき、師父に加持を求め、正念をもってそれらを修めれば、向上することができます。いま振り返ってみると本当に悔しく思います。私は自分を修める機会をあまりにもたくさん失いました。

 仕事のなかで出会った私の影

 私はある学校で副校長を務めています。いままでずっと仕事を立派にこなし、自分には幹部としての能力があると感じていました。長い間何人かの校長と協力するなか、常に彼らの仕事能力は一般的で、校長のポジションにふさわしくないと思い、嫉妬心により偉ぶり、非常に傲慢でした。彼らの前でずっと強気で、強く言い争いました。彼らの意見に対して、いつも不足を指摘し、最後に彼らに自分の意見を受け入れさせてやっと満足しました。

 いまの校長を例にすると、彼らの総合能力は非常に素晴らしいのですが、非常に強気で、争う心が強く、特に名利を争い、人を指摘することが好きで、人を見下します。それにより、彼と一緒に仕事をしてきた10年間、私はいつも彼と争いました。時には背後で悪いことをし、それを楽しんでいました。彼と一緒にいた日々は師父が私に心性を向上させるために入念に按排されたことであると認識できず、さらに自分を照らし、自分を修める機会として扱いませんでした。今日になって、やっと師父がどうして私を再度移動させ、彼と一緒にさせたかの本当の理由が分かってきました。なぜなら彼の振る舞いのなかに現れたすべての人心はいずれも私の執着であり、すべて私のものと一致するからです。修煉者として、私は必ず自分をそれらに照らして、自分の人心と執着を取り除くべきでした。

 家庭のなかの私の影

 家庭のなかは情であふれます。親や兄弟で仲睦まじいのです。性格はそれぞれ異なりますが、お互いによく協力しあいます。兄弟は3人とも仕事が異なりますが、勤め先ではいずれも良い業績があり、互いに比べ合いますが、私はそのなかで自分の人心と執着を探しませんでした。逆によく家族に長広舌を振るい、それを楽しんでいました。父を例にすると、70歳を過ぎていますが、非常に仕事ができる人で、長い間、村で幹部を務め、幹部になった3人の子供を育てました。彼はそれを非常に誇りに思い、言葉にトゲがあり、人を見下し、人と話すときは正面から人をみず、傲慢でした。毎度家で彼と接するとき、彼を説得しようとしましたが、結果として彼を気分斜めにさせてしまい、私も気分が悪くなりました。

 いまになってやっと分かってきました。これも師父が彼を利用して、私の傲慢な心、手柄を自慢する執着を認識させるためであり、家族に見せびらかし、見栄っ張りの自分の人心を映すためでした。私は自分の不足を認識できて、急いで師父に加持を求め、発正念をしてこれらの執着、人心を取り除きました。現在人々はみな父が話すときは謙虚で、人に親切だと言います。私が自宅に帰ったとき、たまに父を説得すると彼も私の話を聞いてくれます。親子の間の争いは再びおこりませんでした。

 社会での私の影

 私達修煉者は勤務先と家庭の修煉環境以外、社会という大きな修煉環境もあります。他人の振る舞いは実際自分の人心の反映であり、自分に見せ、自分を悟らせ、自分を修め、自分を向上させるために存在しますので、私達は時々刻々自分に照らし、自分の人心と執着を取り除き、自分を洗い出し、神の道を歩まなければなりません!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『台湾法会への祝辞』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/8/2/371346.html)
 
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