心を修めて精進する
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2018年10月8日】最近、仕事上で人手が足りなくて、私がすべての仕事に対応する状態になりました。仕事量が多く、いくらやっても終わらず、学法する時も、心が込められなくなりました。この状態で、自分に向けて探さず、心性も堕ちて体が怠けてしまい、癇癖も強くなって恨む心が重くなりました。

 この状態は正しくないと思うのですが、なかなか自分を調整したくなく、この良くない物が自分をコントロールすることを許していました。

 私は車の免許を取得して、2年になりますが、車を運転することが恐ろしいのです。夫と一緒に車の運転を練習する時、よく指摘されているうちに、だんだん聞きたくなくなりました。「その時になれば、自然に一人で運転できる」という口実で夫をごまかしていました。

 1カ月後、急に、「運転する時、隣で教えてくれる人がいても、なかなかできないのに、1人でするなら、もっとできないのではないか」と思いました。

 この考えから、修煉のことを考えました。師父は「わたしは直ちにあなたを三花聚頂に到達させることができますが、ここを離れた途端にすぐ落ちてしまいます。それはあなたのものではなく、あなたが修煉して得たものではないので、載せてもだめです。あなたの心性の基準がそこまで達していないのですから、誰がつけ加えようとしても駄目です。それはまったく自分の修煉によるもので、心の修煉にかかっています」[1]と説かれました。

 心性が上がらないと、功は向上しません。自分がしっかり行わなければならないということに直面して、多くの執着心が見つかりました。私の心の深いところに、自分を「中士」だと位置づけて、「上士」ではないから、自分がしっかり行おうという心が強くありません。その後同修と交流する時、この「中士」という考えのもとは自分ではなく、旧勢力が私を緩ませ、私に押し付けたものだと認識しました。私たちは、師父の正法を手伝うために、天上から師父に従って降りてきたので、「中士」ということはありません。

 師父は「修煉は自分に修煉したい願望があり、圓満成就したい願望を持ち、同時に修煉の行動もあってはじめて、修煉となるのです」[2]と説かれました。

 古の人が語った「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」[3]という言葉があります。師父は、「人間は社会環境の中で自らの範囲を持っているため、自分の気分が自分のことに影響を与えています」、「あなたの正念が強ければ、あなたは自分の範囲で強くて高くなり、中にある良くないものを抑制することができます」[4]と説かれました。

 以前のことがよいか悪いかは既に過ぎたことです。時間は人を待たないので、最後になればなるほど、自分の一思一念を緩めないで、すべての執着心を放下し、着実に修煉して、正念をもって、法の中で自分を正すべきだと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『オーストラリア法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法の中に溶け込む」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/9/26/374986.html)
 
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