常人も救われることを待っている
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2018年10月19日】真相を伝え、衆生を救うことは大法弟子の責任です。これまで、一軒一軒の家を回りながら真相資料を配ることから、市場や、観光地、祭りなど人が大勢集まる場所に行って、資料を配りながら真相を伝え、「三退」を勧めるに至るまでの十数年の時間は、修煉の過程でもあるのです。初めの頃は、怖そうな人にはなかなか声を掛けられず、優しそうな人ばかりを選んで真相を伝えていましたが、時間が経つにつれて、村長から警察官、公安局の人、そして、政府機関の役人にまで自ら声を掛けられるようになりました。

 相手を大切にすることは善の表れです。彼らはただ役職が違うだけで、皆、大法に救われるのを待っているのです。このような人たちがいてこそ、私たちが修煉することができるのです。師父は「一人の修煉者として、ほかでもない常人の環境の中で修煉し、自分を錬磨し、徐々に執着心とさまざまな欲望を無くしていかなければなりません」[1]と説かれました。

 初めの頃、警察官や、「610弁公室」の人に真相を伝えても、怨恨の心を抱いたままで、善の心がなかなか現れませんでした。しかし、学法を通じて、彼らこそ最も可哀そうな人間であることに気づきました。法輪功への弾圧が最も激しかった頃、警察官などに真相を伝えると、相手はまるで発狂したかのように叫びながら私を外に押し出し、何を言っても全く聞く耳を持ってくれませんでした。しかし、今では、道端でばったり会うと、向こうから挨拶してくれます。

 「610弁公室」のリーダーは何度も変わりました。真相を理解するとすぐに他の場所に転勤して、また新しい人がやってきます。去年、私と何人かの同修で、住宅地で一軒一軒の家を回って真相を伝えている時、真相を知らない人に通報されて、「610弁公室」の人が来ました。皆で集まるとすぐ連れ去られてしまうので、ばらばらに別れて走り出しました。当時、私はサンダルを履いていたため、うまく走れず、ちょうど目の前を走ってきたバイクを捕まえて、早く逃げようと思いました。けれど、なんと相手も「610弁公室」の人間で、しかも、主任でした。もう逃げられないと思った私はすっかり諦めて、「よかったわ! ずっと前からあなたに真相を伝えたいと思っていたの」と相手の手を掴み、いっそのこと真相を伝えようと思いました。

 彼を連れて、日陰に行き、真相を伝え、他の大法弟子を追いかけている同僚を呼び戻すようにもお願いしました。最後に、「今日はここまでにしましょう。今度あなたの家を訪ねてまた詳しく話します。こんな暑い中、あなたも、同僚の人たちもいっぱい走って疲れたでしょう。ちゃんと水分補給と休憩をとってくださいね」と伝え、私も、その主任も帰りました。その後、彼の家に行き、さらに詳しく大法の事を伝えました。真相を理解した彼は、間もなくして、他の場所へ転勤しました。

 師父は「どのような具体的なことに遭っても、皆さんに教えたことがありますが、それはいずれも良いことで、それはあなたが修煉したから現れたことです。あなたが思っている如何に大きな魔難にしても、苦痛にしても、いずれも良いことです。それはあなたが修煉したから現れたことです。魔難の中で業力を消すことができ、魔難の中で人心を取り除くことができ、魔難の中であなたを向上させることができます。それはあなたが衆生を救い済度するためであっても、法を実証するためであっても、または個人の修煉の向上のためであっても、魔難は同じです。あなたが大法のために何かを行なっているから、衆生を救い済度するために何かを行なっているからといって、魔難が来なくなるというわけはありません」[2]と説かれました。

 最後の時期です。真に師父と法を信じ、自然の流れに身を任せ、最後の道をしっかりと歩み、共に向上していきましょう。

 人類社会は大法弟子に修煉の環境を提供してくれました。この複雑な環境の中で、様々な良くない観念や執着心を取り除いていくことこそ実修なのです。常人が我々の手助けをしてくれているのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇〇八年ニューヨーク法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/9/5/373371.html)
 
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