法を敬うことについて浅く語る
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 【明慧日本2019年1月27日】『梁高僧伝(りょうこうそうでん)第2巻』の中に、次のような物語がありました。

 「曇無讖(どんむせん)は、中天竺(ちゅうてんじく)の人で、神通力を持っていました。彼の予言がいつも確実に的中するので、西域では彼は「大呪文師」と呼ばれました。一度、彼は国王について山の中に入りました。国王は喉が渇き、水を飲みたいのですが、しかし、どこにも水はありませんでした。そこで、曇無讖は呪文を念じて石の隙間から水を湧き出させました。

 その後、曇無讖は国王に別れを告げ、数冊の経書を持って遊歴(ゆうれき・諸国をめぐり歩くこと)しました。ある日、姑臧(こぞう、今の甘粛省武威県に置かれた県名)に到着した曇無讖は宿に泊りました。彼は経書が盗まれないように、経書を枕にして寝ました。その結果、彼は3夜連続して、ベッドから落ちてしまいました。最初、彼は盗賊に入られたのではないかと思いましたが、目を開けて見ると、部屋には誰もいませんでした。彼はわけが分からなくて戸惑っていると、突然、空中から「それは如来仏祖が苦難から解脱された経典だ。枕にしていいのか?」との声が聞こえました。彼は直ちにそのわけが分かり、非常に恥ずかしく思い、急いで経典を高いところに置きました。ある晩、本当に泥棒が入って来ました。泥棒は経書を何度も持ち出そうとしましたが、しかし、動かすことが出来ませんでした。夜が明けると、泥棒は曇無讖が本を軽々と持って宿から出て来たのを見て、なんと立派な聖人に出会えたのかと思い、思わず前に出て謝罪をしました。

 この物語は私達に「経書は宝で敬うべきであり、決して、枕になどしてはいけない」ということを教えてくれました。

 法を師にすることは大法弟子の誰もがよく分かっています。法を敬うことは師を敬うことと同じで、それは最も基本的なことで、もっとも分かりやすい道理なのです。大法弟子の真の自分は皆法に対して心から尊敬の念を持っているのです。しかし、旧勢力や人心、そして、邪念や執着、観念などの妨害により、私達はいつでも、何事に対してもすべて理性を持って対処するということは、なかなか容易なことではありません。特に旧勢力は虎視眈々と私を狙っており、私達に少しでも不注意や漏れがあると、旧勢力は法に対して失礼なことをするように仕込んできます。そして、それを口実にして、彼らの思いどおりに私を迫害するのです。

 ある同修は大法書籍をきちんと置きませんでした。彼女の10歳の息子は鉛筆で師父の写真を破きました。その後、その家庭は度重なる苦難に陥りました。ですから、必ず子供に大法の書籍は比類なき神聖なもので、決して勝手に触らないように、畏敬(いけい・心から服しうやまうこと)な心を持つようにと教えなければなりません。

 もと学習者は、迫害の初期に、大法の書籍を事務所に置きました。事務所のスチームが水漏れをしたため、書籍は水浸しになってしまいました。師父は何度も彼女に本をそこに置かないようと気づかせましたが、しかし、彼女は気に留めず、結局、大法の書籍を破損させてしまいました。その後、この同修は連行されて転向させられ、二度と戻って来ませんでした。

 またある同修は業を滅しているため、膿と血が出ていました。しかし、彼女は毎回手をきれいに洗わないまま大法の書籍を手にし、その結果、大法の書籍を汚しました。彼女は北京に法を実証しに行く途中に連行されて迫害されました。

 ある同修は、自分が持ち運びやすくするため、1冊の大法の書籍を数冊に分解して、毎回その中の1冊を持ち出すようにしました。その後、この同修はマルチ商法に関与して、8年間も法を学ばず、今になっても真相を伝えていません。

 実は法を敬うことは、大法の書籍を師父と見なし、心の中から畏敬の念を持ち、書籍に対して恭(うやうや)しく、礼儀正しくするということです。それなら、私達は大法の書籍をベッドの下に置いたり、師父の写真を下着がいっぱい干してあるベランダに祀ったり、大法の書籍をわきの下に挟んだり、大法の書籍の前でだらしない恰好をしたりしていいのでしょうか?

 大法の書籍とはなんでしょうか? それは宇宙の万法の源です。それには師父の法身がおられます。それは数えきれないほどの佛、道、神の縮図なのです。私達がどんな態度で大法の書籍を取り扱うべきか、それは言うまでもありません。法を敬い、師を敬うことは、生きるか死ぬかの瀬戸際に試されるのではなく、それは大きなこと、小さなことを問わず、全ての行動の中で私達の理性と謙虚な態度が試されているのです。実は、1人の修煉者は自分を済度してくださる大法や師にすら尊敬の念を持っていなければ、揺るぎない意志や法を実証することや、人を救う事をやり遂げることが出来るのでしょうか?

 旧勢力は私が法に対して失礼なことをするように仕込み、私に法を汚すように誘導しています。私が法を敬わないような過ちを犯した時、それは師を敬わない重罪を犯すことになります。もし、直ちにその過ちを改め、あるいは補うことが出来なければ、旧勢力はそれを口実にして、私たちを潰(つぶ)すような難を用意し、私達にもう円満成就が出来ないと告げ、あるいは私達を破壊するような道を按排するのです。もちろん、同修が迫害される原因は複雑ですが、しかし、法を敬わないのも一つの要因ではないでしょうか?

 ですから多くの魔難は、実は些細なことから起因するのです。しかし、私たちが油断して愚かな時に犯した過ちを直ちに反省し、改めることが出来なければ、それなら、それからの道のりは必ず困難と障害が満ちたものになり、甚だしきに至っては極めて危険なものになるのです。必ず厳粛に対処しましょう。くれぐれも理性的に油断せず、独りよがりをせず、さらに、これを知っていながら過ちを犯してはいけません。

 少しの愚見です。慈悲なるご叱正をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/1/3/379931.html)
 
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