反抗的な女の子が楽観的な青年に
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 【明慧日本2019年2月25日】「大法法輪功)にもしも出合わなかったら、私はきっと鉄の鎖につながれ、刑務所に入所していたことでしょう」と若い女性のナタリーさんは優しく、穏やかに話し出しました。「その頃、私は15~6歳でもうすでに酒を飲み、タバコを吸い初め、世間体のことなど、何も気にかけませんでした」と、ケルン市中心にある上品な珈琲店で、ナタリーさんは明るい声で、在りし日の自分の苦しかった青少年時代を思い返しました。

娜塔丽
ナタリーさん

 私はかつて、逆らっているばかりの反抗的な女の子でした

 私はドイツ中部の片親の家庭で生まれ、母親1人でと兄の2人を育て上げました。母は子供達にできるだけ良い環境を与えるために、数回も引っ越して頻繁に学校を変え、引っ越しはの成績に明らかに影響をもたらしました。13~4歳の頃にはもう勉強にきつさを感じ、登校時間になるともう学校に行きたくなくなり、無断欠席を始めました。母親は一時期、そんなを里子に出さざるを得ませんでした。は早々に学校をやめて、仕事を探しに出かけました。15~6歳の頃には生活状態も荒れ初め、希望も目標もなく、無味乾燥な毎日を送っていました。

 小さい頃から父親の保護がなかったは、なおさら自分の「強さ」を顕示したがりました。その頃のは鼻輪をして唇にはリングをつけ、男の子の格好をして短髪の毛も今日は青色にし、明日は緑に染め変え、そして、鶏の群の中の一羽の鶴のように背丈の高いは、ひときわ周囲から目立ちました。「私は自分が強いと思い、これを表したかったのですが、実は心の中はいつも不安で、周りの人が常に自分を傷つけるのではないかと感じていました。とても小さい頃から家庭内暴力の現場を見たことがあり、自分の身に起こることを怖がっていました。特に男性から暴力行為を受けることを心配していました。そして、この世では安全な所がないと感じていました」

 人生にはやはり意義がある

 1人で同じ所を行き来する生活の中で、は考えることを止めたことがありません。「私は常に自分の生活はなぜこうなのかと自問しました。生命の存在意義と過程はいったい何のためでしょうか? 苦しみと挫折だけが生命の全てだと思いません。必ず原因があるはずです。この点をとても確信していました」。これはさすがにすぐ答えが出る問題ではありませんでした。

 は余暇の時間を利用して、ネットで生命の起源と帰する所に関して探し始めました。2010年4月末に、ネット上で偶然にも法輪大法のホームページを開き、それを見て非常に驚きました。「どこから来た勇気で、この人達はこのように残酷な迫害に立ち向かうことが出来たのでしょうか? どのような人達がこのような勇気と力があって、こんなにも残酷な状況下でも信仰を堅持しているのでしょうか? 私にはとても想像が出来ませんでした」

 母親がパソコンを使わない隙に、私は一刻もじっとしていられなくなって、ネットで『法輪功』という本を探し、読み終わった後は、続けて『轉法輪』(法輪功の主著)を読みました。「私がずっと探していたのは正にこれだわ!」と思いました。そして謎が解け、全てに意義があるように感じました。私はすぐに自分が何を見つけたのかが分かりました。そんな興奮と言いようのない幸運は言葉では表現できませんでした。

 私はこの時、真・善・忍に従って良い人になるべきであることがはっきりと分かりました。これこそが生命の本来の意義です。大法を知る前には良い人になることなど考えたことがありませんでした。多くの同年代の人達と同じように、良い人になることを目標にし、努力することなど全く価値がないものと思っていました。なぜなら、そこから私が得られるモノがなく、したがって、このような問題を考えるのは、ほぼ意義がないと思っていたからです。自分が少なくとも心が悪い人ではないと思っていたので、私はこれで十分でした。

 以前、私は今の多くの人と同じく、次のように思っていました。「人は生きて仕事をして金を稼ぎ、消費するにすぎないものである。生活は容易ではなく多く費やしても、必ずしもそれ相応の報いがあるとは言えない。他人を助けても必ず良い結果があるわけでもなく、一生苦労して頑張ってきたのに、他人が自分より良い生活をしている場合だってある」

 しかし法輪大法を学んでからは、違う考えを持つようになりました。「大法」を通じて私は一人一人の生命の過程、この全てに意義があることが分かりました。人は正に良い人になるべきで、生活の苦しみには全て原因があることがわかりました。

 楽しくて健康な人生の始まり

 それは宝くじに当たったよりも最高に幸運なことでした。宝くじに当たると、その時だけ興奮し楽しいのですが、それとは違い、全てに意義があるように感じました。人間として生命の生きる意義が見つかり、心の圧力は跡形も無く消え去り、この上なく気楽に感じました。そして、人間としての本当の意義があるとつくづく感じました。多くの人も同じ問題を考えたことがあるはずです。しかし月日が経つにつれて生活の雑事に疲れ、問題の答えを探し続けませんでした。私達はみな社会から教えられた「人は良い生活をするために生きており、いろんな享受を追求して、満足感を満たすべきだ」ということを、これまでは受け入れていました。しかしこれは間違いで、法輪大法だけが本物であることが真に分かりました。「真・善・忍」の三文字が、確かな答えでした。私は「真・善・忍」に従って生きる人になりたいと、心の底から思いました。

 心の中に生活の明るい灯がともる

 法輪大法の理念は私に生活の指導を与え、あれやこれやと要求する人がいなくても、自分自身が心から「真・善・忍」に従って行動したいと思うようになりました。このように努力する時、私は心から発する一種の大きな満足感を感じました。

 生活に対しても私はこれまでとは違った態度を取ることができました。他人が私に不公平である時も、だんだんと怒らなくなりました。ある時、知人が私が誰々を罵ったと事実でないことを言い、親友や周りの全ての人との関係に水を差しました。私はこれが自分の心性に対する試練だと分かっていましたので、あまり気にしませんでした。私はもしかしたら、その知人が心で私のことをとても怒っていたために、理智を失ったのかもしれないと思い、知人に対して同情しかありませんでした。昔の私なら、必ずその知人と真っ向から論争し、絶対にそのままでは終わらせなかったことでしょう。しかしその時の私は非常に冷静で、自分がこのように対応したことをとても嬉しく思いました。

 生活に対する態度の変化によって私は楽観的で明るくなりました。以前の私は他人の災禍を喜び、他の人が恥をさらしたり運が悪かったりすると、ハハッと大いに笑いました。他の人が不運にも良くないことに遭うと私は面白いと思いました。他人がケンカをすると、他の人も不運な目に遭うのだと私は喜びました。大法を修煉してからは、このようなマイナス的な思考と気持ちが段々と少なくなりました。家事をする時、これはやるけれどあれはやらないということをしなくなり、仕事をする時にも選ばなくなりました。他人が私に良く接しなくても、私は他人に優しく接し対応しました。自分が窮地に置かれても、心の中では物事が良い方向に向かうと確信できるようになりました。これは今までになかった感覚で、私は楽観的で本当に明るくなりました。

 他人との接触から親戚関係や友情、安心感を感じる

 人として生きる意義が分かってくると、家族と友達に対する私の心境も昔と大いに変わりました。以前私は何に対してもあまり関心を持ちませんでした。今の私は家族と共に喜んで一緒に食事をし、出かけて行き、散歩をしたり、また母親と喜怒哀楽を分かち合っています。母親は親戚や友達が集まった時に、「娘は法輪功を学んでから、反抗的などうしようもない女の子から、責任感が強くて常に義務を果たす素晴らしい青年に成長しましたよ」と言って褒めてくれ、私の変化を非常に喜んでくれています。

 一方私も、友達に対して話をする時には昔のように自己中心な話をせず、他人の話も聞けるようになり、他人と話し合えるようになりました。友達との付き合い方は昔のように、一緒にお酒を飲んで刺激し合う関係ではなくなりました。のような友人関係は、実はとても固い友情を基にしていないことがわかるようにりました。変わった後の自分はもっと深くて固い友情を得ました。煉功する者がいれば、そうではない人もいます。今付き合っている友達は基本的に自分の生活のレベルにだけ気を使い、いかにより健康的な生活を維持し、守るかを考えるタイプの人達です。

 大法の師父に対する感謝の気持ちでいっぱいの自分

 人々は常に「相は心から生じる」と言います。心の変化によって私の外見も大きく変わりました。今の私には昔のような周囲に対する怖さは微塵(みじん)もありません。私ができる限り「真・善・忍」に従って行動する時、常に師父のご加護を感じます。自分をわざと男か女かわからない中性的で、目立つような格好にする必要もなくなりました。私は今とても自然な自分、爽やかで気持ちの良い自然な自分になれたことを実感しています。そして、私は自分の女性的な特性を素直に受け入れています。

 自分の成長した物語を述べていく中で、小さい頃の不快さはすでにとても薄れていきました。言葉から伝わってきたものは楽観的な考え方と自信でした。今、私は大法の師父の慈悲深さを身体全身に感じ、心には無限の感謝の気持ちでいっぱいです。法輪功に出会ったその時から、大法(師父)に自分は受け入れられたように感じました。自分が過去どうであれ、関係なく受け入れられたと深く感じました。過去の私は、大きな慈悲を感じたことすらありませんでした。このような拙(つたな)い私の全てをすぐに受け入れ、加持され、それはあたかも父親が私の手を引きながら、「さあ、迷っておらず、こちらへ来て、私達と一緒に成長していこう」と促されいているかのような感覚と同じです。日々、私の心は落ちつきを取り戻しており、大きな安心感の中にあります。

 私は自分が7年前(2010年)に真の法、真の道に出会ったことを非常にうれしく思っています。大法に出会わなかったら、今の私は無く、まだこの世にいるかどうかも分かりません! 私の師父に対するこのご恩と感謝の気持ちは、言葉ではとてもとても言い表せないほど有り難く、素晴らしいものです!!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/8/27/352793.html)
 
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