師が法を正すことを手伝い、自己を実証しない
■ 印刷版
 

文/遼寧省の大法弟子 慧真

 【明慧日本2019年2月26日】先日、2人の技術担当の同修と接触したとき、同修の執着を発見しました。私自身にもあり、自分がかつて接触したことのある技術担当の同修を思い出し、多かれ少なかれ、似たような状況があることに気づきました。それでこの短文を書き、皆さんにお知らせし共に向上しようと思います。

 技術担当の同修は、技術が分からない、あるいはあまり詳しくない同修の所へ、問題を解決しに行きました。同修は常人と同じように深く感謝してもてなし、技術担当の同修を褒め称えました。ここで感謝をするべきではないと言っているわけではなく、どのようにすべきなのかを分かる必要があり、私たちは皆、師の正法を助けており、常人の何かのためではなく、衆生を救うために資料点を設立し、技術の能力は大法から与えられた智慧であり、同修を称賛しすぎるべきではなく、褒め称えるべきではありません。それは段々と技術担当の同修の自我の執着を膨張させ、実際は彼らを害していることになるのです。

 技術担当の同修は毎日称賛の声の中にいて、いくらか麻痺したようで、多かれ少なかれ知らないうちに、自分がなかなか大したものだと思うようになり、他の人より優れていて、他の人の上にいると思ってしまいます。実際はこれはとても危険で、天の功を貪るのに等しいのです。私が接触した2人の技術担当の同修の口調はとても強く、彼らはとても強い印象を他の人に与えていました。彼らにとって遭遇した問題は朝飯前で、それは技術が優れているからです。常人の言い方だと誇りで、修煉者の見方だと顕示心が強いのです。機械が直ったら、同修は試しに小冊子を印刷してみますが、彼らは一顧だに値しないという表情です。ここで私が言いたいのは同修の技術が高いかに関わらず、自分に対して自信をもって、本来あるべき謙虚な姿勢で、平常心をもつことが正常です。しかし同修が現わしたのは、強烈な自己を実証することです。この強烈な執着を持っていることは危険です。

 私はその時見たのですが、勇気をもって言うことが出来ませんでした。私と同じように思った同修が他にもいると思いますが、見たとしても勇気を出して言うことが出来ませんでした。どうしてでしょうか? なぜなら、私たちが彼らを必要とし、呼び寄せて、技術担当の同修はとても忙しい中、私たちの問題を解決することを手伝ってくれたので、とても言いにくかったのです。少なくとも私はそのとき確かにこのように思いました。実際は師父の正法を助けるというこんなにも神聖なことを常人化して、自分を常人と混同してしまったのです。

 修煉は神聖なことで、どうして常人が行う事と一緒に出来るでしょうか。同修は皆自分の威徳を樹立しています。どうして手伝うことを常人のことのように見てしまったのでしょうか。私はとても後悔しました。しかし、もう一度その同修と接触するのは容易ではありません。聞いた話では、その内の一人の技術担当の同修は、年越し前に病業の関でもう少しで去ってしまうところだったようです。ですから惜しくも、明慧で発表して、同修に責任を負い、自分にも責任を負います。

 他に技術担当の同修に言いたいのは、技術担当の同修たちの中で、どれぐらいの人が真の厳しい技術の試練に耐えうるのか、あなた達の責任と圧力はとても大きいのです。多いか少ないかに関わらず、同修が常人の心を持って無意識にあなた達を持ち上げて称賛し、崇拝したならば必ず警戒して妨害を排除し、決して自我を膨張させないように、上から目線になったりせず、慈悲と和やかな状態を保ってください。あなたの話し声がとても大きいとき、あなたが同修に不平をもったとき、あなたが自惚れたとき、あなたの口調がとてもきついとき、冷静になって自分がいま何に執着しているのかを考えてみて、理智を持ち、注意してください。無意識に自己を実証し素晴らしいと思わないでください。

 また他の同修も心を正して、技術担当の同修を普通の同修と同じように接し、不足を見つけたら指摘して、崇拝せず、私のように遺恨を残さないでください。

 注意すべきことは、技術担当の同修は自分を同修の中に置き、同修が崇拝したり、持ち上げたりするのを見かけたら、相手を注意して、互いに高め合うべきです。智慧と技術は全て師父がくださったもので、全ての人に自分の使命があって、良く出来れば功德無量で、良く出来なかったら全て損失で、つまり、私たちは師父の正法を助けているのであって、自己を実証しているのではありません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/2/16/382821.html)
 
関連文章