河北刑務所で迫害を受ける趙桂艶さんの夫は憤り死亡
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 【明慧日本2019年3月2日】河北省唐山市の法輪功学習者・趙桂艶さんは、2014年7月に町で人々に法輪功迫害の真相を伝えたため、懲役3年の実刑判決を言い渡され、河北省女子刑務所で様々な酷い迫害を受けた。その期間中、趙さんの夫は刑務所にいる妻を大変心配して、憤りながら亡くなったが、臨終の時にも妻に会うことが許されなかった。

 一、再び法輪功を学び、病状が回復する

 2011年の冬、趙さんは突然奇病を患った。それは全身に痙攣が起こって五臓六腑まで痙攣しているように感じ、みぞおちあたりが締め付けられるような痛みを伴った。心臓もドキドキと打ち激しい痛みがあり、立つことも横になることもできなかった。多くの病院で診てもらっても治らず、最後に北京の協和病院や303病院で検査してもらった結果、ここでも病名が分からず治療方法がみつからなかった。当時、趙さんの夫は「俺達はせっかく夫婦になれたのに、嫁いでからまだ幸せな生活をさせていない。俺の両親に対してもとても親孝行して尽くしてくれた。こんな病気なるとはお前に申し訳ない。せめて最後の時くらいは傍にいたい」と妻の趙さんに言った。そして夫は仕事をしないで、妻と一緒にそばにいることにした。家族の皆もまだ50歳にもならない趙さんのやつれた姿を見て、為す術がなかったという。

 その後、趙さんは長年どこかに納めておいた『轉法輪』を思い出し、やっと探し出した。中国共産党が法輪功を迫害する前に、趙さんは法輪功を学んだことがあるが、あれから十数年経っており、多くの字が読めなくなり、動作もすべて忘れてしまった。それでも、趙さんは『轉法輪』を読むと同時に、少しずつ動作を思い出しながら法輪功を始めた。完璧ではなかったが、それでもたったの数日間で、すべての病気の症状が消えた。それを見た家族はとても驚いて「法輪功は本当に不思議だ!」と言い合った。

 新たな人生が始まり元気になった趙さんは感激して、自らの体験と法輪功の素晴らしさを周囲の人々に伝えた。それからというもの、夫の商売もますます順調になり、町のマンションを二棟も購入した。

 二、迫害の真相を伝えたことが原因で 実刑判決を宣告される

 2014年7月30日午前に、趙さんは孫を連れて近くのケーキ屋さんでケーキを食べた時、30歳前後の若者に「三退」を勧めた。ところがこの若者は趙さんの話を聞かずにその場を立ち去り、趙さんのことを警察に通報した。あとでその若者は、610弁公室の人員であることが分かった。

 数日後の8月3日、趙さんは警官に病院に連れて行かれて採血された後に、唐山市第一留置場に拘禁された。留置場で8カ月間苦しめられた趙さんは、懲役3年の実刑判決を言い渡され、2015年4月に河北省女子刑務所に移送された。

 刑務所の13監区で、趙さんは毎日午前6時から夜12時まで、動かずに立ったままの起立の姿勢を強要され、監視役の服役中の殺人犯に監視され続けた。3日目、監視役の囚人が「お前はまだ法輪功を煉るのか?」と聞かれたが、趙さんが何も答えなかったため平手打ちをされて、頭がフラフラになり、目の前が真っ暗になった。

 そしてまた、法輪功を誹謗中傷するビデオを連続して見せられ、趙さんは心理的に耐えられなくなり、うつ病の症状が現れた。監視役の囚人・王暁敏は趙さんに対して数えきれないほど平手打ちをくらわし、王暁敏自身の体力の限界まで暴力を振るい続け、力つきてようやく止めた。しかし趙さんはこの暴力に耐えきれず、意識を失ってしまった。だが迫害は続き、監視役に箸で口をこじ開けられ、歯を痛めつけられ3本の歯がグラグラのひどい状態になり、それ以外のすべての歯もグラグラになった。暫くして意識が回復した趙さんは、顔面が血だらけになって、蒸しパンのように腫れ上がっていることに気づいた。さらに、趙さんは十字架の状態に吊るし上げられたり、大きな樹に縛り付けられたりして、非人道的な残忍な拷問を受け続けた。

中共酷刑示意图:吊铐、固定铐、反铐在大树上
拷問のイメージ図:吊るし上げられ、樹に縛り付けられる

 第13監区で3カ月余り苦しめられた後、精神的にも肉体的にも残忍な拷問を受け続けた趙さんは、身も心もボロボロになったまま第5監区に移送された。そこで、趙さんは毎日午前5時に起こされ、6時30分から夜7時まで労働を強要され、労働時間はいつも夜9時まで延長された。ノルマを達成しなければ、食事を摂ることも寝ることさえも許されず、趙さんはいつも空腹のままで作業をした。時には、食事の時間に少しでも遅れると、ご飯は他の人に食べられて、ほんの少ししか残っていなかった。

 三、夫は心配や深い悲しみの中で憤りながら死亡

 趙さんが解放される1カ月前、趙さんの夫はすでにこの世を去り、無念にも亡くなっていた。息子と娘は刑務所に連絡し、父の最期に母と会えるように願い出て、一時保釈を強く求めたが刑務所はこれを許可しなかった。

 趙さんが連行された当時、息子の嫁は出産した直後で一家は大変困り果て、混乱状態に陥った。また、夫の商売が不景気になり借金を背負い、貸したお金も回収できない状況になった。趙さんの夫はこの状況で昼も夜も眠ることができなかった。しかし夫は毎日610弁公室、留置場、派出所、公安局、検察庁を駆け回り、金銭を使って苦労して早く刑務所から出られるように動き回った。しかしその結果は、趙さんに懲役3年の実刑判決が下されるというものであった。夫は意気消沈し、精神的なプレッシャーで酒に頼り、生活が荒れた中で身体の具合が悪くなり、自分で診療所に行った。しかし、診療所の入り口で呼吸が停止し、緊急措置を取ったが、すでに手遅れで、助からなかったという。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/2/7/382323.html)
 
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