一思一念を修め 衆生を救い済度する
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 【明慧日本2019年8月26日】私は2012年から法輪大法を修煉し始め、今年56歳になりました。学法を通して今まで分からなかった数多くのことが分かるようになり、人としての本当の目的は返本帰真でもとのところへ帰ることだと分かりました。

 法への理解が深まる度に、正法時期の大法弟子は個人の修煉の円満だけでなく、衆生を救い済度する使命もあると分かり、大法を実証することに取り組みました。

 一、恐れる心を取り除く

 初めて同修と深夜に法輪功の資料を貼りに行ったとき、心臓の音が聞こえるくらい緊張しましたが、同修が堂々と「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」の貼り紙を貼っていく姿を見て、とても敬服しました。自分も貼りたいと思うのですが、足が思うように動きませんでした。それを見た同修は「師父が守ってくださっているので、怖がる必要はないよ」と私に言いました。「そうだ、師父のご加護がある、何も怖くない」と思った私は1枚目の貼り紙を貼ると身体が軽くなり、怖がる思いも消えて、神聖な気持ちになりました。

 二、面子を重んじる心をなくす

 ある年の「5・13法輪大法デー」の前日、同修たちはお祝いの横断幕を作ることになり、私も7、8人のメンバーに加わりました。このような素晴らしいことに参加できてとても嬉しかったのです。

 初日、皆さんはそれぞれ担当する仕事を着々と進めました。午後3時ごろ、夫が同修の家まで来て、家に客が来たと私を呼びました。すると同修の1人がすぐに真顔になり、「なぜ常人にここの住所を知らせたの? 皆の安全問題もあるから、何でも常人に言ってはいけないのよ」と言いました。

 私は特に家族に言ってなかったので、悔しい気持ちになりました。しかも皆さんの前で厳しく言われたのは初めてなので、自尊心が高い私にとって恥ずかしい場面になりました。

 家に帰ってからも心が晴れなかった私は、明日も続けて行くかやめるか、自分のプライドが重要なのか、それとも法を実証して衆生を済度することが重要なのかと悩みましたが、修煉者にとって偶然なことはなく、すべては自身を高めるためのものだという師父の教えを思い出しました。また師父は「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」[1]と語られました。これはまさに私の面子を重んじる心をなくす機会ではないでしょうか? それが分かった私は一瞬で気が軽くなりました。

 翌日、私は何ごともなかったかように続いてこのプロジェクトに参加しました。

 三、利益の心を取り除く

 私と夫は再婚して家庭を築きました。2016年、夫の息子が牧場を開くために資金が必要になり、夫は私に息子にお金を貸してやりたいと相談してきました。その時私は修煉者なので、大法の素晴らしさを実証するチャンスだと思い、すぐに同意しました。

 実際私たちの暮らしも裕福ではありません。普通の会社員の夫と無職の私は夫の給料だけで生活していました。しかも夫の息子は以前から何度も私たちに借金していますが、返したことがありません。私は自分が少しずつ貯めた5万元を彼の息子に渡して「このお金は返さなくてもいいから、頑張ってください」と言いました。それを聞いた夫は私の言動に感動しました。

 去年、家が立ち退きになり、私たちは4万元を払って新しい家に建て替えてもらいました。すると夫の息子はそれを自分にくれと言い出しました。私は師父が『轉法輪』で語られた、以前にある気功師が常人と争わず、割り当ててもらった家を他人に譲った事を思い出しました。大法弟子の私は一般の修煉者よりもできないのでしょうか? これはまさに利益の心を取り除く機会ではないでしょうか?

 師父は「『常人には常人の求めるものがあり、われわれはそれを求めない。常人にあるものはわれわれはありがたがらない。われわれのもっているものは、常人がほしくても手には入らないものだ』と、煉功者は確かにこう言うのです」[1]と説かれました。

 私は夫に「私は修煉者なので、師父の要求に従って行なうべきで、師父は私たちに無私無我で、人のことを先にして、自分のことを後にするようにと教わりました。あなたの息子がこの家を欲しがるなら、彼にあげてもいいです」と話しました。

 夫は感激して「大法は本当に素晴らしい。私も習いたい!」と言い、それから夫も学法を始めました。

 四、自分をよく修め 衆生を済度する

 師父はわれわれに「あらゆるところに真相が伝わるように」と要求されました。我が家も学法グループになり、人数が多い時には8人になりました。また小さな資料拠点を立ち上げ、自分が配るほかにグループのメンバーにも提供しました。

 私たちは午前中に学法して、午後から私が資料を印刷し、夜になってからそれぞれ資料を配りました。近いところは私1人で配りましたが、遠いところは夫がバイクに乗せて行ってくれました。

 冬の夜は寒さが厳しく、バイクに乗ると指が凍って痛くなり、毎晩家から出る時は寒さが身にしみ、辛く感じますが、いったん外に出ると心の中から神聖な正念が芽生え、苦しみを恐れる気持ちと安逸心が跡形もなく消え去りました。

 五、修煉には小さいことがない

 2018年9月8日の夜、突然歯が激しく痛み、目が覚めたら一塊の黒いものが私の左の歯を攻めてくるのが見えました。痛みが左側の歯から扁桃体のあたりに、それから耳と太陽のツボにまで広がり、苦しくてたまりませんでした。私はすぐに起きて座禅し大法を暗唱しました。

 その日の昼に明慧ネットで、ある同修の交流文章を読みました。同修は3回も魔難に遭い、大法を暗唱する中で関門を乗り越えたそうです。この体験談に啓発され、自分のすべての細胞が大法を暗唱するようにすると、全身が佛光を浴びているかのように感じ、痛みは少しずつ弱まりました。

 しばらく経つと激痛は再び襲ってきて、一瞬にして窒息しそうになりました。私は歯を食いしばってじっと我慢しながら心の中で法を暗唱し続けていると、12時の発正念のタイマーが鳴りました。私は続いて発正念をし、痛みで眠れなかったので、さらに、五式の功法を全部煉りました。そうすることで痛みはだいぶ消えました。

 それから私はベッドに横になり、心の中で法を暗唱し続けているうちに眠っていました。目が覚めるとちょうど朝6時の発正念の時間だったので、すぐに起きて発正念をしました。

 その晩はまるで悪夢のようでした。いったい何がこのようなことを引き起こしたのでしょうか? どこに問題があったのでしょうか? 私は心を静めて内に向けて探しました。普段から自分の一念に対しても厳しくチェックし、良くない考えが浮かび上がるとすぐに取り除くようにしていました。師父は「修煉に漏れがないとはどういうことでしょうか? 小さいことはありません」[2]と語られました。

 内に向けて探した末ようやく気が付きました。9月8日は私の結婚記念日でした。普段はいつも忙しく過ごしていたので、今日ぐらい少しのんびりしようと考え、スーパーに行っておいしいものを買ってきて、夕食の準備をして食卓に盛りだくさんの料理を並べ、炭酸飲料をお酒の代わりにして結婚記念日のお祝いをしました。

 このことは自分を完全に常人としてみなしていました。さらに深く探してみると、安逸心や食べ物に対する執着心、それに常人のロマンティックな生活への憧れなどの人心がたくさん潜んでいることにびっくりしました。これは「情」に対する執着ではないでしょうか? 私は今まで「情」に対する心が薄いと思い込んでいましたが、内心からまだ熱望しているとは気づきませんでした。これは修煉者にとって危ない心であり、取り除くべき心であると分かりました。

 師父は「修煉ということは、遊びごとではなく、常人の中の技能でもなく、非常に厳粛なことです」[1]と語られました。修煉の中に小さいことはありませんので、私たちは自分に対して緩めてはいけません。

 修煉してから数々の魔難の試練を乗り越え、今日まで至ることができたのは、師父が私たちを常に見守ってくださっているからです。精進して自分を法に照らして修めると同時に多くの人を済度することこそ、師父の私たちに対する慈悲なる済度にふさわしいことだと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『2015年米国西部法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/10/389712.html)
 
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