常人の観念を放下し トラブルの中で実修する
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 文/海外の大法弟子

 【明慧日本2019年9月1日】ある日、私は仕事中にトラブルに遭い、自分の奥深く隠くれていた執着心を見つけることが出来ました。

 仕事の関係で、多言語の患者と接触することが多く、ある日、他のグループの班長が訪ねて来て、管理しやすくするために患者を交換しようと言われました。彼女が言うには、「某患者は、広東語しか話せないが、私達のグループには広東語を話せる同僚がいます。あなたは広東語ができないので、その患者と意志疎通ができないでしょう。患者を交換しませんか」と言われました。私は「この患者は最初から、私と標準語で意思疎通ができていますよ」と交換したくない理由を言いました。その班長は「その患者は広東語を話すので、文化上の違いがあります。私は他の言語の患者を連れて来ますから」と言って、無理やり患者の交換を迫りました。

 班長のこの言葉で私はすぐに腹が立ち、思わず口にしたのは、「文化が違うだけで、それがどうしたと言うのですか? 標準語で意思疎通ができているのに、なぜ、他の言語の患者を連れて来るのですか?」と不満をぶつけると、班長は「あなたの所では外国語の患者が1人増えても、たいしたことはないでしょう。あなたが英語で話せば通じますから」と言って、譲ろうとしませんでした。通常、患者を交換するには、皆が嫌がる患者か、あるいは気難しい患者であると心の中で思いました。もし、他言語の患者を連れて来たら、通訳する人を探すのにも時間がかかってしまいます。しかも、この患者は私に慣れており、彼女の状況も把握できているのに、なぜ私が手間のかかる患者を引き受けなければならないのでしょうか? 仕事の量も増え、通常の交換は同一言語の患者に限られ、誰もあなたのような交換の仕方はしませんと思いました。

 ここまで思った時、心の中はすでに怒りでいっぱいになりました。私の周りの同僚達は、班長が無理やり患者を交換するやり方は強引で、やり過ぎだと思っていました。私のグループの班長がこの事を知って私に、「あの人は相手の気持ちを考えないし、勝手にやりたい放題の人であることを知らないのですか? 私の意見も聞かずに、勝手に患者の交換を決めるなんて許せませんよ。患者に電話をしてその患者の考えを聞いて、私に報告してください」と言われました。その結果、患者は交換しなくてもよいことになりました。患者達も同じことを言い始め、その班長は患者の交換について、何も言わなくなりました。

 仕事の帰りに、この出来事が絶えず脳裏に浮かび、患者の交換はしていないのに、なぜか、心が落ち着きませんでした。考えてみれば、自分はこのことを理性的に行なっていない、相手と争ってはいけないと分かっていたにも関わらず、やはり納得できない思いがありました。法理に基づいて、自分を変える方法が分からず、悪い観念を変えることが出来ていませんでした。

 私にはいったいどんな問題が存在しているのでしょうか? なぜ、ここまで悔しいのでしょうか? 自分に問い詰めました。それはまるで自分が侮辱されたようで、自尊心と自己を保護する心に触れられたからだと分かりました。師父は、広州で講法をされた時、説かれたりんごに関する法理が突然脳裏によぎりました。(翻訳者注:ある会社が社員にりんごを配り、1人の女性社員は出かける時、品質の良いりんごであることを確認した。しかし帰社した時、りんごがすでに配り終えられ、彼女に残されたりんごは小さくて品質の悪いものばかりであった。ある人が彼女に、他の人があなたの大きなりんごと交換していたと言われ、彼女は怒りが募り、罵声を浴びせ始めたと言った話)。そこで私はすぐに分かりました。私の今の状態はまさにその人と同じではありませんか? 以前、自分はその講法を聞いた時、もし、私なら絶対に怒らない、ただのりんごではありませんか? 怒る必要がないでしょう? 大きなりんごだったら私は食べきれません、と思っていました。今、気づいたのですが、私はりんごが好きではなかったため、怒る必要がなかったのです。自分の本質的な観念が触られると、やはり、あの人のように怒ってしまいました。そして、私は自分が間違えていたことがよく分かりました。自分は利益に対する執着、頑なな観念を手放そうとしなかったのです。

 この事を思い返すと、内に向けて探すことを妨害したのは、常人の中で形成されたいろんな観念だったことが分かりました。例えば、私は深く考えずに「この事は、このようにすれば理に適う」、「人としてこのようにしてはいけない。あのようにしてはいけない」と決め付けていました。これらの理は常人の中では正しいかもしれませんが、しかし神からみれば、私にとって不合理の按排は合理とみなされ、私を試す為の按排なのです。なぜなら、神にとって私を昇華させる事が最も重要だからです。

 師父の教えでは、「人心をもって正しいかどうかを強調すること自体が間違っています。なぜなら、あなたは常人のあの理で自分を量っており、常人のあの理で相手に要求しているのです。神からみれば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです。(拍手) いくら不当な仕打ちを受けても、平然として対処し、心が動じることなく、自分のために言い訳をせず、多くの場合、弁解する必要もありません」[1]

 観念は、執着心を覆い隠す傘となっていました。観念を放下した時、初めて法を持って自分を照らして、奥深く隠くされた執着心、名利心を浮かび上がらせることができます。

 それならば、常人の観念にどうすれば縛られないのでしょうか?

 師父は、「いかなる事も習慣になれば物質が生成されるのです。他の空間にそういう物質があるから、この空間でこの状態が現れたのです[1]、「長い間、養われた習慣ですが、この習慣は異なる執着から由来するものです」[1]  と説かれました。

 私の理解では一つの物事が発生した時、どんな事を聞いたとしても、あるいは見たとしても、日頃から常に、常人の考えに動かされてはならず、情から抜け出して物事の良し悪し、すべきかどうかなどを常人の観念で量るのではなく、正念と慈悲をもって対処すれば、常人の観念が形成されなくなります。

 法理を理解した時、一陣の熱い流れが私の頭から全身に流れ、悪い思想業と観念が消去されました。その後、数日間は『轉法輪』を読んだ時に、所々に新しい理解を得ることができ、発正念の時にもエネルギー場がとても純粋になりました。心性の向上ができれば、全体も向上するという法理に対して理解することができました。

 以上は私個人の悟りですが、不適切なところがありましたら、慈悲を持ってご指摘してください。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「マンハッタンでの説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/12/391333.html)
 
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