明慧法会|厳しく自分を律する
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2019年12月22日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 明慧ネット創立20周年に際し、各部門で同修はそれぞれ交流文章を書かなければならないと聞いたとき、真っ先に思い浮かべたのはマイナスなことでした。私は常人の仕事でやらなければならないことが多く、会社はちょうどリストラを行なっており、多くの人が解雇され、残った仕事は私たちがやらざるを得ないのです。残業することは日常茶飯事でした。仕事以外の時間も限られていて、現地ではもうすぐ神韻公演が控えているため、多くの仕事が待ち構えていました。

 そのため、私は交流文章を書くという考えを先延ばしにして、重要性の低いところに位置づけました。いずれ何か思いついたら書けるだろうと思っていました。

 翌日、私は急にある種の圧力を感じ、最初は何かわからなかったのですが、しかしその圧力は大きく、息をすることさえ難しかったのです。数日間その状態が続き、耐え難いと思い、気分が悪くてしかたがありませんでした。修煉体験文章を書くとなれば、おのずと批判的に自己を見つめ直す状況に置かれます。自分のよくない一面を直視することを望む人がいるでしょうか。そうです、修煉者ゆえにできるのです。修煉の交流文章を書くことは仕事のまとめをするようなものです。

 その次に思い浮かべたのは、これはいいチャンスで、もっと早くこうすべきでした。自分の状況を見直して、問題を認識することは向上の第一歩です。私にはたくさんの計画がありますが、しばしば途中であきらめてしまうことが習慣になりかけていました、すぐ重要なことに取りかかることができず、「最もいいタイミング」を待ちました。

 たとえば、私はよく翻訳を締め切り間近に延ばしてからやります。規則正しく、多くのことをこなせるようなやり方を考えたこともありませんでした。第二式の功法を1時間やるつもりにしても、未だにできていません。

 常人の仕事と大法の仕事

 私が受けた教育では、報酬をもらいたければ、勤勉に働かなければなりません。そのため、仕事における私は大変熱心で、勤勉な職員です。職場では多くの人がやめさせられたものの、リストラの危機は私の身に降りかかることはありませんでした。同僚や上司との間でもほとんどトラブルがなく、周りは私が法輪功を修煉していることを知っていて、大法弟子は道徳における要求が高いことを知っていました。時々仕事の量が多いことを除けばすべてが順調でした。

 私は自分が常人の仕事についての考え方や態度は基本的に間違っていないと確信しています。しかし常人の仕事にはこんなに集中できるのに、どうして明慧の仕事は難しいと感じるのでしょうか。最低のノルマさえできればほっとするし、さらなる努力をしようともせず、常人の仕事が、大法の仕事より勤勉なのはおかしいのです。

 踏み込んで自分を見直したところ、私は自分が文章の翻訳においてロボットと変わらないと気づきました。ただ決まった時間に毎週ある程度の量をこなし、その内容と私の関係について考えませんでした。最初のころ私はよく自分が翻訳した同修の交流文章が自分と関わっていると思い、その中からなにかしら学べるだと考えていました。最近ではそのようなことをしなくなりました。同時に私は自分はよく修煉において怠っている同修と比べるようになりました。本当は他人を見ずに、自分に対して高く要求すべきところです。

 第一歩を踏み出す

 私がしっかりやろうと思うたびに、自分の問題に対し、大きな壁があるようで、乗り越えなければならない高い山のようで、あまりにも高く、第一歩を踏み出すことさえ難しく感じてしまいます。

 師父は「本当の劫難に直面したとき、あるいは関門を乗り越えるときに、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行い難いと言われてみても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと『柳暗花明又一村』というように眼前に新たな世界が開けることに違いありません」[1]とおっしゃいました。

 どうしてこれほど多くの問題が現れるかというと、トラブルが現れたときに常人の心で問題を見ているからです。

 師父は「ごく普通の常人で、修煉したくない人にとっては、修煉はとてつもなく難しく、不思議なもので、成就などできないと思うものでしょう。常人で、修煉したくない人なら、非常に難しいと思うのです」[1] とおっしゃいました。

 この点に気づいたとき、今こそ自分を高めるタイミングだと悟りました。すぐに、私は新しいバージョンの煉功音楽で第二式の功法を始めました。第二式の功法をやり出すと、すぐに身体の負担が軽くなったと感じました。実はもっと前から新しいバージョンで煉功するべきでした。新しいバージョンが発表されたことも偶然ではありません。

 私は気分が少しよくなりましたが、重たい感じは完全には消えていません。数日後、私はもう一度長いバージョンで第二式の功法を始めると、すぐに身体の負担が軽くなったと感じました。この3時間で身体の多くの黒い物質が消えた気がして、やっとすっきりして、圧力が完全に消えました。

 ドアストッパーによる気づき

 この間私が部屋の片づけをしていたとき、ドアの近くにあるドアストッパーに気づきました。ねじがすでに緩んでしまい、とっくに床に固定されていません。前の住人が残していったのです。毎回部屋を片付けるときに邪魔だと思いましたが、掃除した後はそのままにしていたのです。このまま何年も経ったのに、今気がつくのは、信じ難いと思いました。魔は細かいところに隠れているのです。このことを通して、よくない習慣や観念は形成しやすいが、人はこれらのものにしがみ付いて離さないのです。向上したければこれらのものを放下しなければなりません。

 今回の交流を書くことによって比較的に根本から内に向けて探すことができました。私は今、いままでの半年よりしっかり自分を修めているように思いました。修煉に対する心構えや大法に対する態度が長い間正されていませんでした。もしつまずいたら、早く立って続けて前に進むべきです。この交流を書くことを通して、師父がおっしゃる「世界が広々と開ける」[1] を実感することができました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 (明慧20周年法会の交流文章より抜粋、編集)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/30/387655.html)
 
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