自分を修めることこそ 真の修煉である
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年2月14日】法輪大法を修煉してから20年が過ぎました。しかし、私はいつも外に向けて見ていました。周りの親戚を見てこの人は利己的、あの人は自分とは合わないと考え、周りの友人を見る時もいつも自分の基準で量り、この人は得をすることが好きで、あの人は嘘偽りを言うので信用できないなどと思っていました。同修と付き合う時もいつも同修の不足の所だけを見て、この人がやったことは法に符号しない、あの人は常人のように話すなどと思い、他人は自分ほどよく出来ていない、とずっと思っていました。私はいつも自分の世界観で物事を量り、人と付き合う時にも、自分の思い通りにならない人や事があると知らないうちに心中穏やかでなくなり、その具体的な物事の中でそれを論じていました。

 今年8月に法の暗記を始めてから、師父の教えを急に悟りました。すべての外在的な物事は私心の現れでした。今まで私は外に向かってばかり修め、他人を修めていて自分を修めていませんでした。よって、いくら修煉してもさまざまな常人の心が残っていました。

 内に向かって探し自分を修めると口では言っていましたが、真に自分を律したことはありませんでした。師父の法理は理論的に認識していただけで、ただそれをもって他人を量り、自分の言動を律したことはありませんでした。いま振り返ってみると、自分は修煉者にふさわしくない状態でした。

 ほかの同修は内に向かって探し、自分を修めることがとっくに出来ているかもしれません。しかし、私は修煉する前にいつも自分が正しいと思っていて、修煉してからも自分が偉いという考えが増す一方でした。これは三十数年間の教師という職業と関係しているのかも知れません。私は子供の頃から負けず嫌いな性格で、他人が自分に対して議論することを少しも許しませんでした。私は常人の中で独りよがりな人になり、中国共産党の党文化に毒害されていたため、どんなことにもベストを尽くし、極端に走っていました。そして、人を見下す強烈な心が生じました。誰かが何かを言っても眼中に置かず、気にも留めていませんでした。小さい頃から人に管理されるのが嫌で、私に口出しする人を見下していましたので、私は親友たちからも敬遠され、敢えて私を怒らせようとする人は誰もいませんでした。同修の間でも敢えて面と向かって、私と違う見方を示す人はほとんどいませんでした。そして、私の常人の心はますます膨らんでしまいました。今年の6月に私は旧勢力に弱みを捕まれ、留置場に7日間拘束されました。そこで私は完全に目覚め、悟るようになりました。

 修煉は他でもなく自分を修めることであり、自分の常人の心を修めてなくすことです。しかし、二十数年間の修煉の中で、私は真に自分を修めていませんでした。師父は教えてくださいました。「法を学び心を修め、圓満成就の手段ー煉功を加えて、確実に本質から自分を改め、心性を高め、次元を向上させることこそ、真の修煉なのです」 [1] 、「本当に修煉するには、心に向かって、内に向かって修め、内に向かって探さなければならず、外に向かって探してはいけません」 [2] 、実のところ修煉者にとって、自分を修めること以外のすべては皆とりこし苦労でした。しかし、自分はこのような大きな問題において、師父の教えに従って自分を修めることが出来ず、大法と逆行していました。両目は外に向かって見ており、旧勢力が按排した道を歩んでいました。そして二十数年間修煉しても、私には大きな変化が起きず、師父が説法の中でおっしゃった神の奇跡を体験したこともなく、大法の素晴らしさを現すことも出来ませんでした。

 いま振り返って見て分かりました。以前、自分が執着していた、誰が正しくて誰が間違っているのかや、誰が良くて誰が悪いかという観念は全て常人の心に過ぎず、これら全ては人が執着し、捨てたくないもので神が必要とするものではなく、神はすべての心を完全に放下できます。宇宙全体が法から成っており、大法は全人類に属するものであるのに、どうして誰がどうなっているかなど心配する必要がありますか? 以前、私はこの同修が皆に遅れている、あの同修は修煉状態が良くない、と常に心配していました。いま、法に照らして見ると実はそれらは全てただの表象であり、私が自分の心がどう動くかを見ることが出来るように見させていました。もし、法に従って考えればそれらすべては、師父の按排ではないでしょうか? すべてが自分を修めるためではないでしょうか? なぜまだ、そのような心配があったのでしょうか? それこそ、常人の心ではないでしょうか?

 修煉は他でもなく、常人の心と観念をなくすことです。今回法を暗記することによって、私はこれらの観念は自分自身ではなく、良くない人心や観念は、全て修めて捨て去るべきだと分かりました。私が精進することを阻むものに執着してはいけません。私は必ず、人身への執着を含めた一切の人心と執着を放下しなければなりません。全ての念を師父の要求を満たすようにすべきです。どのようなことがあっても、どれほど大きな困難に遭遇しても内に向かって探し、自らを探し、自分を修めることが出来れば乗り越えられない関はありません。

 私は今回法の暗記を通して、神と人の違いが分かってきました。神は和やかで慈悲に満ち、衆生が苦しんでいる、すべての人が同じ次元にいると考え、誰が正しくて誰が間違っているかを重んじません。そうであるならば、私も人の良し悪しなどを見分けるわけにはいきません。常人だけが常人を見る時に区別しています。あなたが私に良くすれば私もあなたに優しくし、私に良くしなければ、私も同じように対処するとしたならば、それは常人にほかなりません。神は人によって変えられるはずがなく、相手が自分に対してどのような態度をとったとしても、法の要求で相手に対処し、相手と同じように対処しないばかりか、常人の理に従って対処することなどしません。師父の要求に従って衆生に対処してこそ、真に衆生を救うことが出来ます。なぜなら、衆生に対して慈悲の心を用いたからこそ、衆生の良し悪しを気にせず、真に衆生を救うことが出来るからです。

 いろいろ言いましたが、修煉は他ならぬ自分を修めることで、自分をよく修めることが出来てこそ、師父がおっしゃった大法弟子が行なうべき、「三つのこと」をしっかり行なうことが出来ます。自分をよく修めることが出来なければ、師父にご迷惑をおかけし、師父をもっと心配させることになります。

 ここまで書いたら涙が溢れてきました。二十数年の間、自分をしっかりと修めることが出来なかったため、師父にいろいろご心配をおかけしました。しかし、師父はずっとこのように意気地のない弟子を手放すことなく、見守ってくださいました。師父に感謝いたします。弟子はいま修煉とは何かについて分かってきました。今後は自分を厳しく律して、しっかり修め、「三つのこと」をよりよく行ないます。遅くなりましたが、今は深く後悔しています。

 以上は、最近法を暗記する中での僅かな体験です。不適切なところがあれば同修からの慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修煉とは何か」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/20/396042.html)
 
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