13年間刑務所で迫害され続けた趙成林さん 死亡
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 【明慧日本2020年4月8日】中国共産党が法輪功への迫害を発動して20年、遼寧省本渓市の法輪功学習者・趙成林さんは2回の実刑判決を言い渡され、計13年間刑務所に拘禁されていた。刑務所でさまざまな残忍な迫害を受けた趙さんは、体に大きなダメージを与えられた。そして、趙さんは2020年2月15日、冤罪の晴れないまま、この世を去った。享年58歳であった。

 趙さんは本渓橋頭高砲団の元軍医で、妻の王麗娟さん本渓市商業学校の元教師で、一家は仲良く過ごし、円満な家庭だった。趙さんと妻王さんは1994年8月から法輪功を学び始め、仕事は真面目で、親孝行で子供に良い教育を受けさせた。夫婦は長期的に寝たきり状態で、自立生活ができない趙さんの母親の介護をしており、周りからは良い評価を得ていた。

 しかし思いもよらず、残酷なことがこの幸せな家庭に降り注いだ。1999年7.20、中国共産党の江沢民は、当時の政治局常務委員7人のうちの6人の反対を押し切り、法輪功が国にも国民にも有益な事実を無視し、憲法に公然と違反して法輪功迫害を発動した。そのため当時、軍人の趙さんは真っ先に迫害を受け、軍隊から除隊され、本渓市伝染病病院の医者にされた。

 「天安門焼身事件」の嘘を暴露した趙さん夫婦は、ひどい迫害に遭う

 2001年の旧暦のお正月、江沢民に追随する者が世界の人々を騙す「天安門焼身事件」をでっち上げ、法輪功を陥れた。その番組を放送した翌日、本渓市の法輪功学習者たちは「天安門焼身事件は濡れ衣を着せるものだ」という紙をところどころに貼った。それで、本渓市当局が驚き恐れ、手段を尽くしてその真相資料の出所を探り、趙さん夫婦を重要参考人であるとみた。

 2001年2月19日、王さんは同僚から「校長に、学校へ行くようにと呼ばれた」との電話があった。王さんは同僚と2時30分に待ち合わせたが、学校の前で同僚に会えず、待ち伏せていた紫金派出所の警官らにパトカーに無理やり乗せられた。その後、警官は何の証明もないまま、王さんの家や母の家、義理の両親の家を家宅捜索した。

 当日の夜、警官らは趙さんの連行を企んだが趙さんは連行を免れた。本渓市留置場は3月22日、王さんを釈放すると装い、王さんに釈放の票を書かせた後、王さんを610弁公室の人員によって麻薬更生施設に移送した。そこで、王さんは自白を強要させられ、3日間寝ることを許されなかったが、王さんは一言もしゃべらなかった。3日後、警官はこの案件に新たな動きがあるという理由で、王さんを再び留置場に戻した。その後、2001年4月25日、王さんに逮捕令状が出た。

 その後、610弁公室の警官は趙さんを誘惑し、連行した。警官は「軍隊の立ち退きの補償金が下りた」という口実で、趙さんを本渓市橋頭鎮にある元の部隊に呼び出し、「スパイの部隊」30人を待ち伏せさせ、趙さんを連行した。連行された趙さんは警官らに猛打された。

 その後、趙さんは本渓市教養院という麻薬更生所に送られ、強制的にひどい洗脳を受けた。610弁公室の警官は趙さんを休ませずに精神的に酷く虐待した。趙さんの精神状態を崩壊させ、他の法輪功学習者の名前をはかせようと考えたが、思い通りにはならなかった。そこで、趙さんは本渓市留置場に戻され、1カ月後の2007年7月に、懲役1年の労働教養処分を科された。

 労働教養所で受けた迫害

 趙さんは2001年7月、本渓市教養所に送られた。教養所で趙さんは両腕に手錠、両足に足かせをつけられてた。そして、手錠と足枷の鎖を四つの方向へ強く引っ張り、体を地面から浮かせる「定位抻」という残酷な拷問を加えられ、非常に心身ともに苦しめられた。

 趙さんともう1人の法輪功学習者は「このままだと虐殺される危険性がある」と考え、2001年10月に教養所から脱走した。

 それから、本渓市教養所は脱走した趙さんを捕まるため、趙さんの義理の両親の家に1週間居座った。趙さんの義理の父は趙さん夫婦の連行のショックを受け亡くなり、家に70代の義理の母と趙さん夫婦の息子が寄り添って生活していた。しかし、警官らは1週間の間毎晩、家に乗り込んで来て、義理の母の部屋を占領し、趙さんが来るのを待ち伏せ、息子と義理の母に協力するようにと脅迫した。

 趙さんは放浪生活を強いられた。しかしその2週間後に趙さんは通報されて、再度に教養所に連行された。趙さんの脱走した報復のために、教養所の所長、副所長は数人の警官らに指示を出し、趙さんを殴打した。そのため、趙さんは頭部を変形し、胸部に重傷を負って呼吸困難になり、意識がもうろうとした。その上、警官らは趙さんを独房に入れて吊るし上げ、足枷をつけて数日間そのまま放置した。あまりの苦痛で、趙さんは数回も意識不明になった。

 1カ月間も繰り返し残忍な拷問を受けた趙さんは臀部が爛れ、多臓器が損傷し、死ぬ寸前になった。しかし、何の治療もしてもらえず、独房に拘禁された。

 趙さんが受けた残忍な迫害事実が明慧ネットで暴露された後、趙さんの親戚たちは教養所に行き、趙さんの解放を強く求めた。それで、教養所側が趙さんに対する残忍な迫害がやっと減った。しかし、趙さんは自立生活ができなくなった。趙さんを監視する人の話によると、趙さんは臀部が爛れて起き上がれなくなった。あのような酷い状態で、よく我慢していたと話した。

 極限の苦痛を受けた趙さんは、それでも法輪功への信仰を堅持し続け、死を乗り越えた。

 懲役9年の判決を言い渡される

 2002年7月、労働教養の刑期が満期になった趙さんだったが、本渓市610弁公室と教養所側が結託して趙さんを再び陥れ、本渓市留置場に入れた。同年10月、趙さんは渓湖区裁判所に懲役9年の重刑を言い渡された。

 そして、遼寧省瓦房店刑務所に収容された趙さんは転向」を拒否したため、警官に指図された受刑者らに猛打され、血を吐いて歩けなくなった。それにもかかわらず、独房に2カ月間拘禁された。

 家族は趙さんと面会するために数回も刑務所へ行ったが、すべて刑務所側に趙さんがルールに従わないという理由で拒絶された。2007年3月19日、趙さんの家族はやっと趙さんとやっと面会できた。しかし、警官は家族に「趙は刑務所のルールを守らない。自分で頭を壁にぶつけて、意識不明になった。緊急治療によって危険状態から脱した」と嘘をついた。このようにして、警官はひどい迫害の真相を覆い隠し、罪責を逃れようとして、いつも趙さんの家族をたぶらかした。

 同年4月1日、家族は刑務所に趙さんと面会したとき、一監区の隊長は趙さんの家族に面会ルールを作った。隊長は家族に「そのルールを守らないと面会を停止する」と言った。それから、刑事犯の2人に支えられ、痩せこけた趙さんが面会室に入って来た。真っ青な顔をした趙さんは唇が紫色で、極度に弱っていて、頭すらあげることが出来ず、頭頂部に約6~7センチの傷口があった。趙さんは椅子に座らされたが、両腕に力が入らず、顔がマイクにぶつかった。

 「なぜ、こんなになったの?」と家族に聞かれ、趙さんはかすれ声で「私は信仰を堅持したため、誰かの指示を受けた刑事犯の趙建軍にいつも酷く殴られる。冬に綿入りの服を着るのも、綿の布団を被るのも許されず、お湯を飲むことすら許されない。そして、日常用品を買うのも許されない。生存の権利さえ奪われたので、断食して迫害に抗議するしかなかった」と話した。

 そして、刑務側が責任を逃れて事実をおおい隠すため、趙さんを独房に2カ月ほど拘禁し、家族との面会も許さなかった。

 2011年6月、心身ともに巨大な傷害を負った趙さんは出所した。

 再び、実刑判決を受ける

 2014年3月26日、趙さんは公園で『神韻』のDVDを配る際に、明山区公安分局の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)の警官らに連行された。趙さんは警官らに頭部をひどく叩かれて、意識不明になったが、そのままパトカーに引っ張られて乗せられ、本渓市留置場に入れられた。

 2014年8月26日、本渓市明山区裁判所は趙さんに対して予定の開廷日だったが、原因不明で開廷されなかった。その翌日、裁判所は再度趙さんに対して開廷しようとし、警官が留置場に趙さんを法廷に連れに行ったが、趙さんは迫害に抗議して断食していたため、体が極度に衰弱して意識がもうろうとしていて歩けず、開廷できなかった。

 しかし、同年9月、明山裁判所は家族に通知せず、秘密裏に趙さんに裁判を行ない、懲役4年の実刑判決を宣告した。そして、瀋陽康家刑務所に収容された趙さんは「法輪大法は素晴らしい!」と叫び、奴隷のような扱いの労働を拒否したため、冷水を浴びせられるなどの迫害をされた。趙さんは断食をして酷い迫害に抗議したが、その仕返しに、無理やり口を開けられて数本の歯が打ち落とされた。

 長期にわたり刑務所で残酷な迫害を受け続けた趙さんは、2020年2月15日に力尽きて死亡した。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/3/29/403096.html)
 
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