「気持ちよくいられないことは良いことだ」と悟る
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2020年7月14日】日常生活の中で起きる些細なことから、「気持ちよくいられないことは良いことだ」と悟り、人間の観念を変えることを実践しました。

 師父は説かれています。「修煉者の理は常人の理とは相反するものです。人間は気持ちよくいられることが良いことだと思っているのに対し、大法弟子はこれが向上にとって良くはなく、気持ちよくないことが向上にとって良いことだと思っています。(拍手) この根本的な観念を変えたのでしょうか?」[1]、「常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています。本当にそれができれば、あなたはもう羅漢の初級果位に達していることになります」[2]

 修煉の中で、気持ちよくいられないことを良いことだとするならば、常ににこにこしていなければなりません。もし、それができなければ、羅漢の初級果位にまだ到達していないと私は悟りました。そこで、「気持ちよくいられないことは良いことだ」という意識をしっかり頭に植え付けなければならないと思いました。

 悟ったらやり遂げなければなりません。その日の朝から、自分が気持ちよくいられないことを見た時、感じた時、「観念を変えよう、心から良いことだと思うようにしよう」と自分に言い聞かせました。

 中共ウイルス(新型コロナウイルス)が拡大してから、在宅勤務が始まりました。家にいると、関門を作ってくれるのは家族だけになります。人を驚かすほどの大事がないものの、着実に修める中に収穫もあり、しかし、修めれば修めるほど、まだまだ良くないところがあると思いました。

 例えば、昼休みの時間を節約するため、私は半調理済みの加工食品を買って来て、後で少し手を加えるだけで食べられると思ったのですが、家族に食べられてしまいました。自分の予定が狂い、最初から作らなければならないという面倒な気持ちが生じました。私はその気持ちを掴み、それは楽をしたいという私心だと思い、「面倒なことは良いことだ」と自分に言い聞かせました。これまで、これらの些細なことについて考えたこともなかった自分を思うと、思わず笑ってしまいました。私は面倒を嫌がらず、快くトマトスープラーメンを作りました。味は買ってきた半調理済みのものより劣っていましたが、しかし、とても満足でした。

 家族が使った茶碗がまだ洗っていないのを見ると、「これも良いことだ」と自分に言い聞かせました。自分はあの日ごろ苦労している小坊主になり、家族の茶碗を洗い、皆に便利を提供し、家族の負担を軽減すべきだと思いました。これまで、料理を作るのは私の担当ですが、皿洗いはいつも家族に任せていました。家族もこの皿洗いには慣れていて、特に文句はありませんでした。実は、私は汚れた茶碗に触るのが苦手で、皿洗いをずっと避けていました。これは自分を修めるべき問題だと気付きませんでした。しかし、今日、私は嫌な皿洗いを自ら進んでやりました。

 その後、仕事の中でトラブルが起きました。本来、とても慎重に運んできた仕事に問題が起き、遠く離れたアメリカ企業に連絡しなければなりませんでした。短気な私は、「また面倒なことが起きた」とまず反応し、いらいらしてきました。この時、私はこの面倒を嫌がる心を掴み、「これは良いことだ」と言い聞かせ、トラブルがなければ、楽をして向上することができるだろうかと思いました。私は心を落ち着かせ、段取りを踏んで仕事をこなし、連絡メールを送りました。そして、面倒だと思っていたことはたいして面倒ではなくなりました。実は大変だと思わせたのはあの頑固な面倒を嫌がる人心だけだったのです。

 様々な人心に伴い、体調がおかしくなり、アレルギー症状が現れ、鼻水が止まらなくなりました。絶え間なく修めているのに、どうしてこのような症状が現れ、体調がおかしくなったのでしょうか? この度の「体調がおかしいのは悪いことだ」という心を掴み、「すべては良いことだ、考え過ぎないようにしよう」と自分に言い聞かせ、そして、目前のトラブルを解決するために執着心を探すのはやめよう、それは不純な心だと思いました。考え方を変え、しばらくすると、アレルギー症状も消えてなくなりました。

 師父は説かれています。「苦しみによって人間は意識的または無意識のうちに苦難に対抗してしまい、その目的は幸せな暮らしを手に入れるためです。したがって、幸せを求める中で、人間はいかに傷つくことなく、いかに良い生活を送り、いかに社会で出世し、功なり名を遂げ、いかにより多くのものを手にし、いかに強者になるかなどのために経験を積んできました。これらの経験を持つと同時に、人生の観念は形成され、観念はまた経験が実践されていく中で強化されてしまいます」[3]

 人間は、困難に遭遇した時、無意識のうちに苦難に対抗し、苦難を直視せず、頑固な観念を形成してもまったく気付きません。自らそれらの観念を変えようとしなければ、これらの些細なことに気付きさえもせず、修めることはなおさらできないでしょう。しかし、真に修める弟子として、このような人間の様々な観念を変え、気持ちよくいられないことは良いことだと心から思うようにしなければなりません。こうして初めて笑顔で人生の様々な苦難を直視することができるでしょう。

 以上は現段階での悟りです。法に則っていないところがあれば、慈悲なるご指摘をよろしくお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/4/408531.html)
 
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