「フランス法会へ」を勉強して得た少しの理解
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年9月20日】師父は「法会を通じて本当に向上できるよう期待しています。不足を見つけ、さらにしっかり取り組んでください。皆さんは人類の希望です。元気を奮い起こして北米の大法弟子のように困難の前に尻込みしないようにしてください。人間の枠に制限されないでください。邪悪に怯(ひる)まないでください。なぜなら、歴史は皆さんのために残すものだからです」[1] と説かれました。

 私は1994年から修煉を始めました。20年余りの間、師父のご加護の下で、デコボコしながらもなんとか今日まで歩んでこられました。1999年以前は大小にかかわらずよく法会に参加し、大法の中で修煉する同修たちの無私無我な言動と純粋さに本当に感動しました。1999年以降はこのような法会がなくなったため、よく明慧ネット上の交流文章や海外の同修の交流文章などを読んでいます。しかし、読んだ後は、いつも同修への感心や尊敬だけで、自分を反省することはあまりありませんでした。環境が異なり、境界が異なっているからと様々な枠に妨げられていたのです。師父の説法を勉強して、自分と同修との差が見えました。難関に遭い、なかなか乗り越えられないときは、同修の文章を読んでハッと執着心に気づいたり、心が楽になったりすることがよくあります。

 常人の枠は、これまでの修煉の道において大きな妨害でした。

 真相を伝えるときは、利益を重んじる上級社会の人間を警戒して、一般庶民にしか話しかけたくありませんでした。しかし、ある日、ある見た目貧困そうなおばあさんを見て、自信満々に話しかけたところ、突然、大声で罵られてしまいました。このことで衝撃を受けた私は、人を階級で分けたがる心理や、常人の枠によって慈悲な心でもって、すべての衆生を見ることができないことに気づかされました。

 普段は非常に規則正しい生活を送っています。これは良い習慣ではありますが、常人の枠を形成しやすい原因でもあります。早寝早起きに慣れており、夜は早く寝なければなりません。もし、何かあって遅く寝ると、明日きっと睡眠不足になるから昼寝をしなければ、学法発正念をするときに眠くなってしまう、と思うので、結局、翌日はすごく眠くなって昼寝をしました。このように、常人の枠にとらわれて、長い間、なかなか突破できませんでした。

 また、暑くてもダメ、寒くてもダメ、のどが渇いても、お腹が空いても、疲れてもいけません。これらすべてが人の枠の中のことです。師父は「修煉者は寒さにも暑さにも強く、風にあたっても病気になりません」[2] と説かれました。修煉者は本来すべてを超えた存在です。観念さえ変えれば、すべてが変わるのです。しかし、私は常人の中にはまり込んで、なかなか抜け出せませんでした。常に常人の感情や感覚に執着して、真に向上できないのです。

 生徒から尊重され、保護者からは好評を受け、校長先生や教頭先生たちからは肯定されるなど、教師をしているときに形成された枠により、他人を責めたり、指摘したりすることはできても、相手からの指摘や文句を受け入れることができず、終いには、褒め言葉しか聞きたがらず、自分の気持ちに反する言葉は全く聞きたくありませんでした。長年修煉してきて、このままではいけないと分かってはいるものの、表面上は責められても何ともない平然なふりをしていますが、内心では非常に抵抗感を持っていました。これは、20年余りの間修煉してきて、今だあまり向上していない原因の一つでもあるのです。

 日常生活の中で、物事の是非を追求することも向上できない原因の一つです。他人に否定された時は非常に悔しくて、どうしても相手に自分が正しいことを分かってもらいと言い訳をしたり、自分を証明したりします。終いには、相手も良くないと思ってしまいます。師父は「いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか? 法に対する認識が高まったのでしょうか? 人心をもって正しいかどうかを強調すること自体が間違っています。なぜなら、あなたは常人のあの理で自分を量っており、常人のあの理で相手に要求しているのです。神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです」[3] と説かれました。師父は説法の中で詳しく教えてくださいました。その通りに行なえばいいのに、私はいつまでも放下できていませんでした。

 師父は「いかなる妨害に遭っても、具体的な出来事に深入りせず、自らを妨害することのないようにしてはじめて、妨害を振り切ることができ、しかも威徳はさらに大きくなるのです」[4] と説かれました。反省したところ、私はいつも「具体的な出来事に深入りせず、自らを妨害」[4] しており、自ら苦しみながらもがいているのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『フランス法会へ』
 [2] 李洪志師父の経文:『シンガポール法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「マンハッタン説法」
 [4] 李洪志師父の経文:『波紋を呼んだ副元神に関する文章について』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/14/391451.html)
 
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