「同修の執着を指摘すること」について
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文/四川省の大法弟子

 【明慧日本2020年8月3日】師父は私たちに宇宙の大法を伝えられています。私たちは師父に会えない時は、すべては法を師とし、すべては大法を基準として物事を測ります。大法には強制的な規則がなく、つまり「戒律」がないのです。

 集団で法を勉強し、集団で煉功し、そして法会という形式は、師父が私たちに残されたものです。旧勢力はこのような形式を破壊しましたが、今からこの文章を通して、どうやって同修の執着を指摘するかについて、みなさんと交流したいと思います。

 「同修の執着を指摘したい」と思った時、もし本当に他人のためだけを思って私心がなければ、私たちの話しぶりや態度はきっと穏やかで、親切です。師父は「わたしがいつも言っているように、ある人が他人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る話は相手に涙を流させるのです」[1]と説かれました。

 もし「話しぶり」が、どうしても穏やかにならない時は、それは自分に「善ではない」ものあるので、自分を修める時になったのだと思います。

 「同修の執着を指摘すること」についての私の認識ですが、やはり同修のその時の執着、或いは、最近現れている執着については、善意をもって話したほうが良いと思います。昔の出来事を持ち出してはいけないのです。なぜかというと、そうすれば「真・善・忍」の「真」に背くことになります。私たちは修煉者なので、すべてのことは修煉によって変化しています。今の修煉状態と、過去の修煉状態とは違うからです。いつまでも変わらない人はいません。

 大法の法理に基づいてみれば、真でなければきっと善もなく、それには忍もないという要素が含まれているのです。師父はですから、真も、真・善・忍から構成され、善も、真・善・忍から構成され、忍も同様に、真・善・忍から構成されているのです」[2]と説かれました。角度を変えてこのように理解してもいいでしょう。つまり、いつまでも今までの見方で、人を判断していれば、それは善ではなく、修めるべきことを口に出してしまえば、それは忍ではないのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「はっきりと目覚めよ」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「善を説く」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/26/385565.html)
 
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