後天的観念は精進を妨げる深刻な障害
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2020年8月8日】後天的に形成された観念を修めて取り除くことに対し、娘がよく注意してくれましたが、私は少しも気に留めず、重視しませんでした。

 婿はたくましくて健康的で、美味しそうに食事をとる彼の姿を見ると「やっぱり若いっていいね」と呟き、潜在意識の中で自分の老いを認めていたのです。ある同修は身体が丈夫で、がっしりしていて健康だという話を聞くと「彼はまだ若いから」とつい、口からこのような言葉を漏らし、「彼はまだ若くて、自分は年老いた老人で、自分は彼とは比べものにならない」の意味が言外に含まれていました。羨望に堪えない中、不平不満の心、嫉妬心等の数多くの人心が隠されていました。

 近所の子供におじいさんと呼ばれた時、気分を悪くして、自分が老いたことを知り、自分はしっかり修めていないため、身体に老化現象が現れたことを認識させられました。

 「口を開けば常人のことばかり」と娘によく指摘されます。例えば「今日、食べ過ぎたから、散歩に出かけてくる」、汗ばむ日に「涼んでから出かける」、肌寒い日に「服を着込まなくては」と言います。潜在意識の中で、このまま出かけると風邪を引いてしまうと言う考えを持ってます。身体の調子が良くないと、自分の内臓に何か問題が起きているのだろうか、医学書で調べてみよう、等の後天的に形成された観念が瞬時に湧き出てきます。

 心を静めて内に向けて探してみると、幾つか気付きにくいことにおいて、ほとんど常人の観念に支配されていたことがわかりました。ある日、よく知っている同修が「以前のあなたは違っていましたね、なぜ今のようになったのでしょう」と私に言いました。苦笑いするしかない私は「なぜ今のように変わったのだろう?」と自分に問いかけました。

 ここ数年、私はゲップがよく出る状態が現れています。ある時は数日も続いて、グループ学法にも支障をきたしました。症状の重い時に、食事をとると直ぐに戻してしまい、声をだすこともできず、自発的に笑う現象もしばしばあり、抑えることが出来ません。医者が脳梗塞に関係しているかもしれないとコメントをくれました。私は口では言いませんが、心の中で医者のコメントを認めました。

 私は自分の病業状態をしばらく変えることができなかったため、三つのことに影響を及ぼし、とても辛かったのです。自分のこの状態を変えることができないので、黙認するしかないと同時に、それに対してなす術を知らない自分が実は常人の観念を用いてこれらの問題を見ており、法に則って高めることが出来ていませんでした。

 この体験交流文を書く際に師父の法のこの一節を思い出しました「人間が最も放下し難いものは観念であり、甚だしい者は、偽りの理のために命を投げ出しても変えようとしませんが、この観念自体は後天的に形成されたものです」、「実のところ、人間は先天の純真さ以外、一切の観念はみな、後天的に形成されたもので、自分ではないのです」、「もし、この後天的な観念が強くなってしまうと、この観念が逆に、人間の本当の考えと行ないを支配するようになりますが、この時、人はそれを自分の考えだと思ってしまいます。ほぼ、すべての現代人がこのようになっているのです」[1]

 師父のこの法を学んで、自分の多くの言動が後天的に形成された観念がもたらしたものだと知り、ここまで来て、やっと、この問題の深刻さを認識できました。これらの後天的に形成された観念を修めて、取り除かなければ、自分の考えと言動を根本的に変えることができるでしょうか? 身体の不正な状態を徹底的に変えることができるでしょうか? 

 自分は常人の中で修煉していますが、しかし法輪大法を修めているのですから、なぜ後天的観念に支配されるのでしょうか? 師父は「皆さんは人間の状態を変えようとせず、理性からも大法を真に認識するまで昇華しようとしなければ、機会を失うことになります。皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」[2]と言われました。修煉は常人から神になる過程です。神になることを妨げるような妨害を取り除かなければ、どうして円満成就の基準に達することが出来るでしょうか?

 二十数年も修煉してきましたが、なぜまだこれほど多くの観念が自分の言行を支配しているのかについて考えました。それは法を良く学ぶことが出来なかったからです、頭の中に入っている法が少ないため、後天的に形成された観念に占領されてしまうのです。師父は「人間はまるで一つの容器のようなもので、何かを入れればそれになるのです」[3]と言われました。

 自分の修煉を振り返ってみて見ると、初めは大法の仕事をひたすらやるだけで、学法することが分かりませんでした。大法が迫害される中、学法することはさらに減り、邪悪の監禁から戻った後も学法が足りないだけでなく、内に向けて探すことが分からず、確実に自分を修めることを知りませんでした。自分の一言一行、一思一念において、執着心や、観念を取り除くために修めることは更に劣っていました。

 ここ数年、同修の体験交流文を読んで、自分の修煉状態は同修と比べて、その差が大きく開いていることが分かりました。同修と比べて、自分は今まで修めてきたと言うよりも、その場しのぎにいい加減に過ごしてきたと言った方が適切です。同修の傍にいる時、常に頭が上がらず、自分のことを情けなく感じ、師父の慈悲なる済度に申し訳ない気持ちです。

 一人の人間は生々世々において、どれほど多くの後天的観念が形成され、それらの観念の背後に、またどれほど多くの人心、執着心がかくれているでしょうか? 私自身に顕れた人心、執着心は数十種類はくだらないのです。例えば、名利心、顕示心、嫉妬心、怨恨心、闘争心、歓喜心、不平不満な心等々です。しかし、その後天的に形成された観念はこれらの執着心の保護の傘となり、時々刻々助長し、保護し、覆い隠して、傷つかないように、修煉の過程で取り除かれないように守っているのです。 

 後天的観念は修煉者の精進を妨げる深刻な障害です、後天的観念を取り除かなければ、修煉は成就できません。たくさん後天的観念を持って、天国の世界へどうやって行けるでしょうか? 現在、私は後天的観念を取り除くことを重視出来たのは同修達の慈悲なる教え、指摘のお陰です、同修達に感謝致します。

 今後の修煉において、いままでの教訓を吸収して、直ちに精進し、学法を最優先にして、後天的に形成された観念を修めて取り除き、自分をしっかり修め、円満成就して師父について帰ります。

 修煉過程の中の少しばかりの教訓と浅はかな認識ですので、法に沿ってないところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「誰のために存在するのか」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法の中に溶け込む」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/9/408677.html)
 
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