迫害の実態を伝える時に 自分の言動に注意すべき
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2020年8月11日】数日前、私が法輪功迫害の実態を伝えるとき、ある同修が私達のすぐそばにあった黒いゴミ袋をポーンと遠くまで蹴飛ばしました。その時、それはいけないよと同修に指摘しようと思いましたが、相手の体面を考えすぎて、実は何も言いませんでした。今思うと、この事を非常に後悔しています。

 師父は「何をしても人のことをまず考えるようにします」[1] と教えてくださいました。大法弟子は衆生を救い済度することを行なっています。もしも、基本的な常識や最低限のマナーさえも守っていなければ、大法弟子と言えるでしょうか? 逆に言えば、大法弟子は大法の活動に参加する時にはほとんどゴミを現場に残さず、特に4.25の時の大法弟子のそういったマナーはさらに称賛に値します。しかし、海外の同修はこれくらいのことさえ出来なければどうするの、と思っています。

 法輪功迫害の実態を伝える中だけではなく、私達は普段から周囲の人と接する中でも、自分の言語や振る舞いなどに注意すべきです。もし私達の良くない行ないを人に見せたら、法輪功迫害の実態を伝える効果に影響が出るかもしれません。私達のせいで大法と縁のある人を救い済度することが出来ないかもしれません。私達の個人的な悪い習慣が大法に泥をぬることになり、人々に大法を正しく理解してもらう目的を果たしていないのです。

 師父は「事々対照 做すところ到るは是れ修なり」[2] と説かれました。大法弟子は衆生を救い済度する重大な使命を担っています。同修は大法の中の一つの粒子であり、大法弟子は自分をよく修めることによって、衆生を救い済度できます。もし、私達が法に基づいて自分を正すことが出来なければ、甚だしい場合、自分の言動が共産党文化の産物と認識できなければ、衆生を救い済度の難しさを大きくし、旧勢力に狙われるようになります。

 大法に基づいて自分を修める同修は、人々は彼らの慈悲なるエネルギーによって感化されることがあります。その日の活動中に、もう一つの出来事がありました。ある清掃員がカメラを持ち出して、私達の活動現場を撮っていました。彼女はこれらの写真を見ながら、「なんと美しいことでしょう」と褒めてくれました。彼女は「法輪功迫害の実態は私の心を揺り動かしました。本当に私は涙を流しそうになり、法輪功のことをもっと知りたいです」と私に話しかけました。この活動を通して私に分かったことですが、私達が本当に大法に同化し、自分を良く修めるならば、世の人々をもっと感化させ、救い済度の作用を果たすことが出来ます。

 注:
 [1]
李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「着実に修める」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/12/28/379010.html)
 
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