「嫉妬心」--恨みの根元を掘り起こす
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年8月19日】多くの同修は、恨む心を取り除かないため、正しくない状態を現わし、さらに病気の状態になりました。恨む心と嫉妬心を取り除くことについて、私の経験を同修と交流したいと思います。

 人間は、理由なく恨むことはないので、必ず何か前提条件があります。例えば、私はその人にとても優しくしているのに、その人は私に優しくないとか、私はこのことに対して多くの気持ちを注いでいるのに、彼は無視したとか、私は彼に対して良くないことをした訳ではないのに、彼は私を馬鹿にしたとか、彼がしたことは私をたいへん傷つけた等々によって、恨みが生じました。

 恨む心が現れたら、修煉者として、この心が良くないと分かっているはずです。これらの心を取り除かないといけません。学法を通して、また発正念を通して、恨む心は確かに少なくなると感じます。しかし、時々、他人が自分に不公平なことをしたことを思い出すと、また不公平を心から感じて、恨む心がまた現れ、このように繰り返しています。実際には修煉がまだ足らず、恨む心の根元(嫉妬心)を掘り起こしてはいないと思います。

 嫉妬心という言葉を聞くと、普通は心の狭さの現れだと思われがちです。嫉妬心が出てきたら、通常闘争心、不満、恨む心が隠されていて、修煉者は内に向けて深く探さないと、嫉妬心自体から抜け出せず、長い間向上できません。

 嫉妬心に対して、まず他人が自分より優れていれば、他人に嫉妬すると認識しました。このような嫉妬心は簡単に気づくことができます。

 私は最近『轉法輪』の「嫉妬心」のところを暗記した時、師父は私に一つの法理を啓示してくださいました。それは嫉妬心の表現の一例として、「心のバランスが取れなくなる」ことです。この「嫉妬心」の文中に「心のバランスが取れなくなる」という言葉は6カ所あります。私は、以前から嫉妬心がよくないと分かっていますが、最近の自分の状態に照らし合わせてみると、以前、気づいていない自分自身の中に存在している良くない物質に気づき、たいへん驚きました。「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、我々が修煉して圓満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです」[1]。「ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです。業を持ちながら往生すると阿弥陀佛が語ったことがあるのを、皆さんはお聞きになったことがあるかも知れませんが、しかし嫉妬心は無くさなければ駄目です。つまり他の方面で少し足りないところがあっても、少々の業を持ちながら往生して、再び修煉してもよいかも知れませんが、嫉妬心は無くさなければ絶対に駄目です」[1]。嫉妬心は他の執着心と違って、円満成就できるかどうかに直接関連しています。

 師父は説法の中で、三つの境界(悪者、善人、覚者)を説かれました。師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」[2]と説かれました。以前、私は他人とトラブルを起こした時、特に他人と争った時、この法で自分を指導し、気持ちを調整して、できるだけ自分の心を落ち着かせるようにしていました。しかし、最近私は「嫉妬心」のところを暗記して、さらに嫉妬心の表現が「心のバランスが取れなくなる」と認識し、考え方がもっと大きく変わってくるように感じました。普段のいろいろなマイナス思考の根源は、「心のバランスが取れなくなる」と関係があると理解しました。自分の私心が満足できないため、機嫌が悪くなり、引き続き文句を言い、不満になって、さらには言い争うようになります。以前、これらの気持ちが「嫉妬心」と関連していると考えたことはありません。しかし、今「心のバランスが取れなくなる」という気持ちは、私の多くの執着心(嫉妬心を含む)と繋がり、私の中でもっとはっきりしてきました。

 今朝、娘に暖かい豆乳を飲ませるため、豆乳を豆乳機械に入れました。娘は豆乳を飲んだ後、豆乳機械を洗わず、ただ水に浸けただけでした。私は豆乳機械を洗う時、心のバランスが取れなくなりました。「私は、あなたが暖かい豆乳が飲めるようにするため、豆乳機械に入れたのに、飲んだ後、あなたは豆乳機械を洗わない」と考え、私は機嫌が悪くなりました。しかし突然、これは嫉妬心ではないかと気づきました。もし、気づかない場合は、娘に文句を言って争い、その後は恨みです。

 昼、私は夫と昼ご飯を食べた時、夫は私に唐辛子を取ってくるように言いました。私は唐辛子をキッチンから持って来ると、今度はまた、酢を取って来てほしいと言いました。その時、私の機嫌が悪くなり、「私はご飯を作ったのにあなたは何もせず、その上私に指図している」という考えが現れました。私は我慢して何も言いませんでしたが、心のバランスが取れなくなり、不機嫌なままでした。

 後になって考えてみると、我慢するだけでは足りなくて、そこで心が動揺する必要もなかったのです。酢を取りに行くことが重要ではなく、また「心のバランスが取れない」ことでもなく、その時の光景は、夫に「ちょっと疲れたので、自分で取ってきて」と言えば済むことだったのです。

 こう考えれば、嫉妬心は生活の中で至る所にあるでしょう。私は、生活の中で小さいことでもしっかり修めていなければ、大きな難に遭った時、乗り越えられるだろうかと考えました。しかし、私は本当に小さいことでもしっかり修めていないのです。

 最近、私は自分の貯金を使って、母にマンションを買いました。その際、私の弟は全然お金を出していません。私の心は、また不公平だと思って、お金に関わったいろいろな考えが現れました。

 師父は、「嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱(ぜいじゃく)なものになります」[1]と説かれました。私はこの法について体験があります。普段、私は自分が利益に淡泊であると思いますが、嫉妬心を取り除いていないため、利益への執着心も出て来て、お金のことを気にしました。私は弟に対して不満が現れ、家族の間にトラブルも出て来て、母も弟に不満を持ちました。

 私は自分の状態が良くないと分かっているのに、不公平な心を制御できなくて、たいへん悩んでいました。私は関を乗り越えられない時、いつも学法を通して乗り越えるため、すぐ学法を始めました。私は『轉法輪』の「煉功するその人が功を得る」のところを学んだ時、師父は「常人は常人社会に迷うので、現実の利益を前にすると、その心を捨て去ることができません」[1]と説かれました。私は自分が常人ではない、常人社会に迷うことはできないと思うと、心が落ち着き、不公平に思う心が消えました。

 しかし、2日間過ぎると、その不公平に思う心がまた出て来て、ちょうどその時、私は「彼は自分が煉功者であることを常に心掛け、人との関係を正しく処理し、心性を守り、絶えず心性を向上させ、常人のいろいろな利益の誘惑にも心が動じません」[1]を学んでいました。私は、弟との関係を正しく処理しようと思い、私は修煉者だ、弟は常人であり、高い次元から見れば、私は、慈悲をもって弟を救う立場にいて、同じように対応してはならないのです。このように考えると、心がまた落ち着いてきて、不公平だと思う心がなくなりました。

 しかし、また2日間が過ぎて、この心がまた現れてきて、引き続き法を学びました。私は利益の枠の中に陥って出られなくなるようでした。師父は別の角度から私に啓示してくださいました。私の思惟は師父の導きに従って、少しずつ常人の考え方から抜け出て来ました。このことは私の生々世々に遭った苦難と比べてみれば、何にもなりません。弟は生活上の苦難のため、お金を出すことが出来ないのです。その一瞬、私は弟が本当にかわいそうだと思いました。

 このようにして、この関をやっと乗り越えました。私の思惟は私が知っている法理と結びつけられました。実は私たちは心の中に不公平な気持ちを感じた時、自分の不足を見つけることになるでしょう。それは私たちの修煉のために、向上できる階段になるでしょう。私たちが善の高い境界に達した時、恨みが完全にない時、彼らはかわいそうだと思うでしょう。私の向上のため、関を設ける生命に感謝すべきだと思います。

 最近、自分の心が狭く、些細なことでも不満の気持ちが現れ、文句を言うなど、すべて嫉妬心と関連があるのだと悟りました。

 現在の社会を見ると、嫉妬心が至る所に現れています。今人気の言葉「羨ましい、嫉妬、恨み」について、常人はすでにこれらの思惟の間に連鎖反応を起こしていると気づきました。嫉妬はすでに普遍的な現象になっています。例えば、ある2人の同修は一緒に何かをする時、まだ何もやっていないのに、2人の心には互いに不満が現れます。ですから普段から怒りやすい同修は、しっかり自分の心を確認すべきです。あなたは不平や不満などの気持ちがありますか? その次は、気に入らないとか、文句を言うとか、言い争うとか、恨みなどの気持ちが現れることを注意すべきだと思います。師父は、「今日、わたしは煉功者に向かって話していますが、頑迷に固執して悟らないようではいけません。あなたが達成しようと思う目的はより高い次元へ修煉することですので、嫉妬心は必ず無くさなければなりません。だからこそわれわれはこの問題を単独に取り上げたわけです」[1]と説かれました。

 嫉妬心にはもう一つの表現があります。特に同修との間で、皆が修煉者なので、他の執着心はすでに、あまり気にならなくなりましたが、自分の観念と合わない時、気に入らない、悔しい、さらに張り合うなどの気持ちがあります。同修との間に、嫉妬心によって溝が生じることが多いのです。また嫉妬心によって、一部の修煉者が長い間落ち着かず、全体にマイナスの影響を与えました。闘争心が現れたら、自分の心の内に向けて探して、悔しいという気持ちがあるかどうか、あればその裏に嫉妬心が隠れています。普段、このような気持ちが現れたら、他の執着心だと思って、そのまま気に留めないようにしました。もちろん普段闘争心などの執着心をしっかり修めれば、嫉妬心も比較的、軽くなるでしょう。

 自分の一思一念をしっかり掴んで、小さいことからしっかり修めて、良くない考えや習慣があなたをいつの間にか通過せてはいけません。

 これは私の現在の次元の悟りですが、不適切な所があれば、ぜひ慈悲なる指摘をお願い致します。

 注:
  [1] 李洪志師父の著作『轉法輪』
  [2] 李洪志師父の著作『精進要旨』「境界」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/3/385827.html)
 
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