給与がアップされるまでの心を修める経緯
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2020年7月12日】私は1994年から修煉の道を歩み始め、常人の中では比較的安定した仕事についていました。しかし、毎日の安逸の中で利益を求める心を助長してしまいました。新しい職場で、給与の調整がたびたび行なわれていたのですが、私は調整の対象にされませんでした。かえって、私より新人のほうが年収は高かったのです。表面では私は何も文句を言わずにいましたが、内心不満を抱いていました。「何故私の給与を上げてくれないのか? あの人は何の理由があって、こんなにたくさんアップされたのか?」と心の中のバランスがとれませんでした。

 師父は『轉法輪』の「嫉妬心」で、このように述べておられます。「常人には認識できない理を一つ、皆さんにお話ししましょう。あなたが自分では何でもよくできると思っていても、運命の中にそれがありません。ところがある人は何をやっても駄目に見えていても、運命の中にそれがあるから、幹部になったのです。常人がどう考えても、それはしょせん常人の考えに過ぎません。もっと高い次元の生命体から見れば、人類社会の発展は、定められた発展の規律に従って進展しているだけなのであり、人が一生の間に何をするかが、その人の能力に応じて段取りされているわけではありません。佛教では因果応報を唱えていますが、段取りは業力に応じてなされていますから、あなたにいくら力量があっても、徳が無ければ、一生何も得られないかも知れません。ある人は何をやっても駄目でも、徳が多いので、高官になり、金持ちになります。常人にはこの理が分かりませんので、自分にふさわしいことをやらせて貰うべきだといつも思っています」

 実は私はずっと他人を自分と比べていました。もしも皆の給与が上げられていなければ、私も現状に満足していたかもしれません。特に身近にいる人と比較してしまうと、心のバランスが増々とれなくなるのでした。この嫉妬心は実に強烈です。明らかにこれは良くない心だと知って、抑制しなければと考えていても、一瞬だけは抑えることが出来るものの、考え直すとまた嫉妬心が湧き出てきます。

 この嫉妬心はほかの人心を助長するのです。例えば、復讐する心です。この不平不満な心が起きた時に、ある思いを抱き始めます。「私は他人に媚を売ることをしない。給与をアップしてくれなかったのは絶対にあの上司だ。何故私の事をそんなに気に入らないのか? きっと彼に差し入れを贈った事がなかったからだ。彼からの飲み会の誘いにも付き合わなかった。だから給与を上げてくれなかったのだ。これからもし出世して、自分が上司になれば、私も彼の給与を上げてやらない。彼をクビにしてやってもいい」と、何とも恐ろしい心がしばしば湧き出て、まるでそれは自分の心だと勘違いさせるのです。幸い、大法がありました。大法は自分の是非を判別でき、このいざこざから解脱することが出来るように導いてくださいました。

 少し前、社内で再び給与の調整が行われようとしていました。最近、自分の仕事も順調で、業績も悪くありません、自分の給与はアップされるはずだと思いました。内心で「もしアップされなければそれでいいのだ。この心を取り除くべきで、給与がアップされなくても、平常心を保つように」と自分に言い聞かせました。しかし、時には給与のことを思い出すことがあります。しかも、某同僚は上司と関係が親密だとか、誰それが上司に差し入れを贈ったとかの話を耳にします、気になるように思い出させるのです。

 給料日がやってきました、給料明細から自分の給料が大幅に増えたことに気付き、嬉しくてたまりませんでした。歩くときに元気がみなぎり、笑顔も増え、上司のことを感じよく思えて来ました。自分の給与がアップされたことを皆に告げたかったのです。実は、その時、顕示心や虚栄心が現れてきたのです。内心で、なんと「これは自分が嫉妬心を放下したご褒美だ」という一念がありました。この一念は、実は求める心です、修煉を通じて自分の人生や生活を改善しようという人心なのです。

 自分のこの心理状態に気づき、後でよく考えればそれは恐ろしいことだと思いました。私は常人の幸福を享受する為でなく、修煉ができ、衆生を救うことができるように師父が按排されているのです。やはり、予想通り、今月の給料でアップされた金額は僅かで、予想した金額ほど多くありませんでした。またもや、これは心性に対する試練でした。これは自分の顕示心と虚栄心に対する試練でした。振り返って見れば、かつて、自分が得るべからざるものを得たので、返すべきものは返した方が良いのです。

 気持ちは落ち着きましたが、この件についてはまだ終わっていませんでした。突然ある日、チーム長が「実は最近、私の仕事ぶりが目覚ましいので、もっと給料を上げてやれなかったことに後悔している」と上司が彼に話したと私に教えました。ただし、私のその目覚ましい仕事ぶりが現れたのが遅かったため、給与の調整に間に合いませんでした。その話をきいて、私は冷静を装いましたが、内心では複雑でした。既に自分はそれらの常人の心を全部取り除いたとばかり思っていましたが、事実上、まだ少し残されており、師父はそれを見つけてくださり、きれいに取り除かせてくださいました。実はチーム長の話は、まさに修煉において、常人の仕事において精進できない、だらけた表われの描写だったのです。

 ごく普通によくある給与調整の話から、これほど多くの常人の心が映し出されました。私はこれらの人心の中で苦しみ、もがいていました、執着心を取り除くことが出来ないためではなく、常人の中の損得に苦しみました。もしもっと人を救い済度する事に専念していれば、個人の損得にばかりこだわるでしょうか? 私は自分の執着を恥じるべきだと思います。

 今日、ここまで書いて、私の内心は平静で喜ばしい気持ちに満ちています。師父の慈悲なる済度に感謝します、この意気地なしの弟子に幾度も修煉の機会を与えて下さった師父に感謝します。心より師父に御礼を申しあげます。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/8/407253.html)
 
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