顕示心の現れについての認識
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年11月20日】最近、何かがずっと喉につまっているようで、不快な感じがします。どんな時に感じたのかというと、同修と交流した時、つまり自分が悟った法理を相手が理解してくれず、賛同してくれない時です。この感覚は良くないとわかっており、排除しましたが、まだ存在しています。

 本を読むと丁度自分の問題について言及されている次の経文がでてきました。「法に対して責任を持つということ以外、皆さんに如何なる人間の執着、自分のためのもの、自分個人の要素もなければ、物事はきっと順調に運ばれます」[1]、「自分を強調し、自分のための考えがあればあるほど、威徳はありません」[1]

 同修と交流するとき、言葉に「自我」のものが挟まれたのではないかと考えました。最初はただ自分がある法理について悟ったものがあり、まだはっきりしていない段階でしたが、同修と交流してみようと、話しているうちに、ますます自分の認識が正しいと思い、最後には自分の認識に対して疑う余地さえなくなりました。相手の共感が得られない時に、喉が詰まるように感じるのです。これが「自我」というものでしょうか?

 これは気づきにくいものです。自分はでしゃばるつもりはなく、逆に相手のためだと思いました。あなたは今魔難の中からまだ脱出できておらず、私がこう言えばあなたは理解できるはずです。理解できたら問題も解決できるでしょう。私はこんなに正しいことを言っているのに、なぜ受け入れてくれないのかということは、これは「自我」を強調していることではないかと、私は気づき始めたのです。

 私は『オーストラリア学習者への説法』ビデオの中で師父が説かれた法を思い出しました。私が理解している大体の意味は、あなたたちは故意に、明らかに自分を実証しているのではないが、実際の行動はそのものだというのです。

 自分の考えの中に、私は正しい、私はあなたを助けるため、私はその能力を持っているなどが潜んでいることが分かりました。この「自我」は、認められると非常にいい気分になり、逆に賛同されないと不愉快になります。またこの心は「人のため」という口実で覆い隠されています。

 「実はあなたが持っている全ての能力は大法を修めたから与えられたものではありませんか? 学習者に顕示せず、うぬぼれもしないでください。自分に能力があるなど思わないでください。あなたのそれほどの能力は何かできるのでしょうか?」[2]

 「効能といい、功を開くことと言い、みなあなたが大法の中で修煉して得たものにほかなりません。もし大法を二の次にして、自分の神通力を最重要視し、あるいは悟りを開いた人は自分の認識こそ正しいと思い、極端な場合は、うぬぼれて自分が大法を超えているとさえ思ったりしたらその時点であなたはすでに墜ち始め、危うくなり、だんだん駄目になっていきます」[3] 、「下手をすると堕ちていき、修煉を台なしにしてしまいます」[3]

 ここでやっとわかったのは、もし自分のことを他人に認めてもらえない時、自分の機嫌が斜めになった時、すなわちその「自我」が現れて来たということです。自分の悟った法理は大法から授かり、与えて下さった知恵です。大法ではなく、自分のことを認めて欲しいのであれば、これは大法を二の次にして、自分を上の位置に置き、自分を実証していることであり、大法を実証していないのではないでしょうか!

 この段落は「顕示心」のところで師父が説かれました。この心を取り除かれなければ危険ではありませんか? 修煉が無駄になるのではありませんか? これは決して小さい事ではありません。本当の自我がなければ、話の表情はずっと穏やかになるはずで、法理について語るだけであり、他人に対して求めることもないはずです。誰かに何かを押し付けようとする時、それこそ「自我」の現れです。

 法を正す時期の大法弟子は人を救う中でそれぞれの力を発揮しています。ある人はパソコン技術が得意であり、ある人は機械の修理、組み立てが得意であり、ある人は真相のチラシ配りが得意であり、ある人は話が得意であり、ある人は文章が得意であり、ある人は絵画が得意であり、ある人はダンス・歌が得意であり、ある人は楽器演奏が得意であり、ある人は車の運転が上手であり、ある人はリーダーシップの能力があり、ある人は外交が得意であるなどですが、全ての能力は、慈悲で偉大なる師父が法を正す需要に応じて私たちに与えられたものです。もし「私はすごい」と言う考えが現れたら、すなわちこの「自我」が出てきたということです。それは顕示心であり、自分を最重要視し、大法を二の次にし、危うくなり、修煉を台無しにする恐れがありますので、思うままに考えさせるわけにはいかないのです。

 師父はこのようにいわれました。「顕示心があってはいけません。皆さんは法を実証しているのであって、自分を証明しているのではありません」[1] 。ですので、この心は隠されていようが、現れていようが、人のために心が動じ、自分がすごい、大したものだという考えは、すべて自己を実証する顕示心であり、絶対にあってはいけません。

 個人の次元での悟りですので、適切でない所があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/7/395530.html)
 
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