文/北京の大法弟子
【明慧日本2017年4月7日】心性を修める中で、いつも自分の各種の執着心との闘いに苦労し、それにからめとられていると感じました。私はある人心を見つけると、頑張ってその人心から抜け出し、一時的に気にかけなくなりますが、相次いで他の人心がわき上がってくるという繰り返しで、気にかけなかった執着がまた戻ってきてしまうのです。
最近、自分の中にある多くの人心はみな「自分を持ち上げる」、「自分が正しいと思う」ことと関係していると分かるようになりました。例えば、顕示心は自分を強く表現することを焦って自分を持ち上げるためです。歓喜心は自分に対する高い評価を得て、人に認められた後の喜び、あるいは自分が正しいと思う優越感を享受するためです。闘争心は自分を持ち上げる心が激しく、他人を打ち落とすためです。嫉妬心は自分を持ち上げられず、心のバランスが悪くなり、マイナスの心理になったためなどです。
ときに、私が感じるのは、自分の話の背後に次のような目的がありました。自分を持ち上げ、他人からの評価を得て満足したいためでした。議論や分析をして他人をけなし、勝手に結論を下すことは潜在意識の中に自分が他人より優れていることを表明したいためでした。さらに深く考えていくと、頭の中で現れた多くの雑念はみな自分を持ち上げるためで、自分はよくできたと得意になり、他人はどこに問題があり、どのようにやるべきかなど、みな「自分を持ち上げる」、「自分が正しいと思う」ことと関係しているのです。
これは普遍的な問題かもしれません。特に一定の能力と知識レベルを持つ同修はさらにこのようです。表面的には法を勉強し、修煉していますが、潜在意識の中に自分を持ち上げ、自分が偉いと思うこれらの要素は、実質上法と対立面にあり、自分だけを認めるのです。これに一旦触れられると、発作をおこし、自分は誰よりも正しいと思い、自分の固有観念を放さず、旧勢力により現れた状態によく似ていて、修煉の向上をひどく妨げました。ふだんの修煉の中に現れた状態は何かに出会っても、内に向けて探さず、自分には全く問題がないと思います。学法は心に入らず、表面上は皆について本を読みますが、内心では変化がなくあるいは変えたくなく、相変わらず自分の元の観念で行うのです。これは旧勢力が私達の修煉を妨げる一つの方法であるかもしれません。一面では頭がとても切れて、能力もあるように見えますが、主意識は旧勢力の観念にしっかりコントロールされ、自分もなかなか気づきません。これは実質上主意識が強くなく、自分に影響を与えるばかりでなく、他の同修に師が法を正すことを助け、衆生を救い済度することを妨害しました。大法の修煉者はこの問題を軽視してはいけません。
個人の認識ですので、妥当でないところはご指摘ください。