十数年を経てやっと悟った
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年4月5日】幸運にも大法を修煉して20年の中で、私はいつもAさんとBさんの2人の同修に心性を練磨されていました。彼女らの性格は真面目で果断、事を行うのも早く、怒りやすく、特に遠慮なく人を批判していました。私の性格はその正反対でした。一緒に三つのことを行うとき、いつもトラブルがあり、私は彼女らの現れを恨んでも仕方がないと思っていて、全くこのことが自分の修煉に関係があるとは思ってもみなかったのです。さらにこれが師父の按排であるとは尚更思ってもいませんでした。

 まずAさんですが、大法が迫害に遭ってからの数年、Aさんはよく私が遅いのを嫌っていて、私が優柔不断だと言っていました。特に私が家で心性を守れず、よく常人のように争ったりしたとき、彼女に出会うと、彼女は私に向かって燃え上がるような怒りで、態度がとても悪かったのです。時間が長くなると、私はなぜ彼女がこんなに怒り、落ち着いて言えないのか? と思って全く内に向けて探しませんでした。逆に自分はとても平静だと思っていました。あるときちょうど乗り越えられずにいると、明らかに一つの明瞭な思惟が打ち込まれてきました。言葉にすると、「あなたの周囲はすなわちそのようになっているのです」という意味です。本当に師父が私に表わされた意味だと感じました。私はとても驚きました。どうしてなのか理解出来ず、長いこと考えました。ただ自分の智慧がとても小さいのだろうというだけしか思い至らず、人と何かをやっていても間違いを起こさないようにしようと思うだけでした。

 もう1人のBさんは、数年前に小グループの学法のときに出会いました。彼女はよく怒っていると感じました。機嫌が良いときは少なく、私は少し彼女を怖く感じていました。こんなに長く学法しているのに、彼女と話すときはとても固まってしまいました。私は内に向けて探すよう自分に要求し、思い至ったのは、彼女は私を向上させてくれているので、良いことではないか、だから彼女が何かを言っても、私はなるべく黙っているようにして、心の中で努力してバランスをとり、自分を探しました。この状態をずっと維持していましたが、もしかして私も彼女に言うべきではないか、そんなに怒らないように指摘したほうが良いのではないか? と思いました。言おうとしたとき、またこう思いました。言い方に注意しなければ、相手は受け入れることが出来ません。

 ある日の午前、学法が終わって昼食を食べているとき、私は笑いながらBさんに言いました。「もし私が当時あなたの下で仕事をしたら、食事をとる時間もなかったでしょう。私の仕事の効率が悪く遅かったらあなたに吠えられてしまいますからね」。「実際あなたの長所は私には無い部分で、本当にあなたに学びたいのですが、あなたはいつも怒ってしまいます。私は怖くてやむを得ず敬遠してしまいます・・・」というと、Bさんは「あなたは私のことを分かってくれていません。当時私は部下たちにとても良く接していました。彼らは私に『言葉はきついが心根は優しい』と言いました。あなたは彼らに聞きに行ってみてください。ああ、長い間やってきたのに、あなたは元の考えのままで私と距離をとっていたのですね。私はなぜ今になってやっと分かったのか? 私はなんて馬鹿だったのか!? 人に嫌われていたのに、私はこんなにも馬鹿だったのね」といいました。私はそれを聞いてすぐにしまったと思いました。もともと穏やかに話そうと思っていましたが、結果は逆になってしまったのです。

 次の日同修の李さんと交流しました。李さんが言うには「あのときあなたが言ったことをBさんは誤解して悪くとらえました。あなたの昨日の言い方はとても丁寧でした。私は理解しましたが、彼女が理解するとは限りません」

 しばらく時間が経ってから、何の偶然か分かりませんが、Bさんがそこに座っていて、またあの事を話し出しました。Bさんの心は依然として憤りで穏やかでなく、「自分はどうしてあんなにも馬鹿だったのか」と言いました。私は何だかとても不思議に思いました。この事は前に終わった事じゃなかったのか? どうしてまた現れて来たのか? 私はまた解釈して言いました。「私が言ったことは実際は別に意味がありません。とにかくあなたが怒りすぎる、すぐに怒ってしまうことを指摘したかっただけです。私はあなたが怒るのを恐れて何も言えませんでした。あなたに言おうと思っても、またあなたが爆発するんじゃないかと恐れて、どのように言おうかと方法を考えて、その結果あのように遠回しにあなたに言ったのです。実際、本当にあなたが平静になることを望みます。もし、あなたを傷つけたならお許しください」

 このように私が言うと、Bさんは、「実際私もこのようにしたくありません。改めたいのです。私もどうしてこのようになるのか分からないのです」と言いました。Bさんはまた続けて言いました。「今後なにかあったらストレートに言ってください。遠回しに言うのはやめましょう。私には意味が分かりませんから。私の考え方は簡単です。ただ師父がおられ、大法があり、明慧もあります」。私はすぐに感動しました。私には人間の観念があり、党文化の要素がとても重いことを発見したのです。

 昨年の初めのある日、私とBさん、李さんも一緒にいるとき、Bさんが言いました。彼女はとてもはっきりとした二つの夢を見たそうです。一つは私とBさんの夢で、Bさんが言うには、私は自分の鼻水をかんだ紙を全てBさんのカバンの中に入れたそうで、Bさんは「このカバンの中にはとても多くの真相電話が入っていて、こんなことをしたらどうやって使用するの?」と言うと、私は忙しそうに「私があなたを手伝って洗ってあげますから」と言ったそうです。しかしBさんは私に洗わせなかったそうです。二つ目の夢は、Bさんと李さんが一塊の綿を布団に詰めていて、やっているうちにいっぱいになったと思って、敷いてみたら、まだ広く残っていて、もともと綿がとても少なかったのです。Bさんは李さんに「あなたのこの綿はとても少なかったから多いのに換えたらどうでしょうか」と言ったそうです。

 第二の夢は私たち3人は皆悟ることが出来ました。容量を大きく広げるということです。しかし第一の夢はどういう意味か分かりませんでした。私はけっこうがっかりしました。心の中で思ったのは、他の人は皆口から蓮の花を出すのに、私はどうして人のカバンの中に汚れたものを投げ入れたのでしょうか? 私は何を修煉してきたのでしょうか?!

 家に帰ってから師父が説かれた話を思い出しました。「二人がトラブルに遭ったとき、それを見た第三者まで自分を考えるべきです。つまり、彼らにトラブルが起きたのですが、なぜ私はそれを見たのでしょうか? 私に何かの心があるのでしょうか? 私に同じ問題が存在しているのでしょうか?」[1]

 どうして彼女の問題が私に見えたのでしょうか? もしかして私にも彼女と同じ問題があるのではないでしょうか? もしこの問題が修煉と関係なく、向上する要素がなければ、いっさい私の身辺で発生するはずはありません。「容量を大きく広げる、容量を大きく広げる」。私は突然に悟りました。やはり師父が私の頭の中に打ち込んでくださったのでしょう。私はいっきに分かりました。彼女は私を手伝って容量を大きく広げてくれていたのです。以前、私は自分の性格が内向的で、心が狭いと自覚していたので、とても容量を大きくしたかったのです。師父はすべてを按排してくださっていたのに、私の悟性はあんなにも悪く、他の人が私を手伝ってくれているというのに、私はまだ他の人を恨んでいたのです。師父はこの要素を来させて私の向上を助けてくださっていたのです。私が向上していなかったので、あの要素も落とされていなかったのです。どうりでBさんが言ったのです。「私もそのようにしたくありません」と。彼女も変えたくても変えられなかったのです。私は師父が説かれたことをはっと思い出しました。「なぜなら、修煉の道のりにはいかなる偶然なこともなく、話をしている中であなたを刺激したもの、トラブルの原因である利害関係は師父が作ったものかもしれません。相手の話は非常に刺激的かもしれませんが、あなたの痛いところに触れたから、刺激的だと感じたのです。本当に不当な扱いを受けたかもしれませんが、その話は必ずしもその人が言ったのではなく、私が言ったのかもしれません。(皆笑って) そのとき、あなたがどのようにこれらのことに対処するのかを私は見ており、相手に口答えをしたら、実は私に口答えをしたことになります」[2]

 私は本当にとても驚きました。自分のその心を捨てたくなかったから、道理で汚いものを吐き出していたのです! 後になって怖くなりました! 師父、十数年経って弟子はやっと悟りました。このとき、一筋の熱い流れが頭のてっぺんから全身を通りぬけました。大法の博大にして奥深いことを感じました。師父の長い間の浩瀚(こうかん・広大である。おびただしい)たる洪恩に、私の魂は深く震撼させられました。師父! ありがとうございます! 師父! ありがとうございます! 弟子は十数年経ってやっと悟ることができました。

 Bさんが私に向かって言ったあれらの話は、改めて内に向けて自己を見つめ直すことを教えてくれました。また本当に自分にはたくさんの問題があることを発見しました。ひいてはとても重要な問題もありました。例えば彼女が以前話したことですが、「あなたが法を読むのを聞くと眠くなります」と言われたことがありました。このことを内に向けて探してみると、見つかったのは、自分は法を読むのは上手いと思っていて、顕示心がありました。ある時は口では流暢に読んでいますが、思想はそこから離れていました。このように学法すると心に入らないだけでなく、師父に対しても法に対しても不敬になります。私はBさんに謝りました。

 十数年を経て悟ったことを経験して、私が思うのは教訓はとても深刻で、いつも思うのは感慨してやみません。ですからこの過程を書き出しました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「マンハッタン説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/22/344598.html)
 
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