三度にわたって顕示心を取り除く
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文╱中国の大法弟子

 明慧日本2017年9月15日】幼い頃から大人になるまで、私はずっと「頭がいい」と言われて来ました。友人も、先生も、上司も、同僚も、同修も皆そのように言って、甚だしきに至っては、私を連行した警官でさえ、私のことを「頭がいい」と言いました。小さい頃から形成して来たこの顕示心は私の中に深く根付いていました。

 慈悲なる師父は、私にこの頑固な物質があるのを見られ、最近、あることで三度にわたって私の顕示心を暴露して見せてくださり、それを取り除くようにしてくださいました。

 事は市で行われた業界の作品コンテストで起こりました。私はコンテストの審査員でもあれば、作品の出品者でもありました。

 審査が始まる前に、私は先に発言しようとしました。コンテストに参加する作品の中には、私の作品と類似したものがあるので、もし、私の作品があとから展示されれば、新鮮さに欠けてしまい、「損をする」と思ったので、私は審査チームに自分の作品を前に展示してもらうように言おうと思いました。しかし、私が言う間もなく、コンテスト作品の展示順番が発表され、私の作品は最後になりました。

 私は黙って席に戻り、心の中で「一番を目指しているのに、結局後ろから一番目となった。これは師父が私に顕示心が強すぎる事に気づかせて下さっている。本当に恥ずかしいことだ。この顕示心を取り除こう」と思いました。同時に、自分の闘争心と特権を利用しようとする党文化があることにも気づきました。

 私は座って、これらの悪い考え方を抑えました。しかし、しばらくすると、顕示心は方法を変えてまた出てきました。私の作品と似た作品が次から次へと落選し、私の作品は入選しました。しかし、私の心の中に別の考えが出てきました。「私の作品がベストスリーに選ばれてはいけない。もし、ベストスリーに選ばれると、引き続いて省のコンテストに参加しなければならない。それでは、時間をたくさん取られる。私は自分の作品を降ろさなければならない」と考えました。そこで、私は極力他人の作品を褒め、審議の場で自分の「謙虚さ」、「寛大さ」、そして「譲りの礼儀」を十分に皆に見せびらかし、順調に「賞は取るが、進級はしない」という目的に達しました。私の心の中でとても嬉しくて浮き浮きし、皆さんに自分の作品の水準の高さを誇示すると同時に、自分の「高尚な品格」も顕示しました。

 この時、自分はすでに顕示心、名誉を求める心にしっかり包まれ、有頂天になってしまい、先程師父が気づかせて下さった、「見せびらかすこと自体、強い執着心で、非常に良くない心であり、修煉者として捨てなければならないものです」[1]という師父の説法をすっかり忘れてしまいました。

 この膨張した執着心の働きの下で、私はある子ども弟子の進級が出来そうな作品もついでに下ろしました。

 コンテストの後、私は子供弟子に、「あなたの作品を下ろしてあげた。私に感謝しなくてならないよ。もし進級したら、これからの2、3カ月のすべての時間をこのコンテストに費やさなければならない。そうなれば、法を習う時間は取られてしまう」と言いました。子供弟子は私に「ありがとうございました」とお礼を言ってくれました。

 しかし、翌日、子供弟子は私の所に来て、「家族は『もし進級が出来たら、省の中で僕の知名度が上がり、業界でもっと多くの機会が得られる』と言ったよ」と言いました。子供弟子はまったく私に愚痴を言ったつもりはなかったのですが、しかし、私は「自分が間違った」とすぐに分かりました。私は自分の考え方を他人に押し付けてしまい、「子供弟子を助けた」と勘違いをして、彼のこれからの出世のチャンスを奪い、そして、顕示心に駆り立てられ、彼の前で「自慢話」をしてしまったのです。自分がやって来た事を思うと、本当に恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちになりました。

 振り返って見れば、今度の事を通して、師父は1回また1回と私の顕示心を暴露してくださり、そして、1回また1回私に気づかせてくださいました。にもかかわらず、私はまったく目覚めませんでした。人々が言う「頭がいい」と言うのは、ただ常人の狡猾さだけで、決して大法の智慧ではありません。なのに、私はこの後天に形成した観念を自分とみなし、独りよがりになってしまったのです。

 『轉法輪』を開いて目次を見れば分かりますが、「顕示心理」(第六講)と「嫉妬心」(第七講)はいずれも独立のテーマになっており、この二つの人心を取り除くことはとても重要であることを意味しているのです。師父は「ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」[1]と説かれました。

 それなら、顕示心はどうでしょうか? 深く掘り下げると、私は次第に「普段仕事の中で、時には担当外の事に対して、自分が熱心にやって来たのは、大法弟子の優しさからではなく、それは『私は出来る、私は他の人より優れている』と見せびらかしたい心からだ」と分かりました。大法の事もそうですが、明慧ネットで発表されたこれらの文章は私が書いたものだとか、このプロジェクトは私が担当したとか、いつも周囲の人にそれを知ってもらいたくて、もっとひどい場合、法がこの世を正す時に、自分の神通力を大いに発揮して、「超常のものを追求して、常人の前で見せびらかしたりする」[1]心すらありました。今から考えれば、このような考え方は「自分の心より魔が生じること」に近いものではないかと思いました。

 これらのことを書き出し、暴露して、深く隠れた顕示心を取り除きたいと思いました。師父の慈悲なる啓示に感謝しながら、同修達と励まし合いたいと思いました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/9/8/353483.html)
 
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