文/中国大法弟子
【明慧日本2019年6月23日】ある日、「ご飯ですよ」と母親に呼ばれた時、ご飯とおかずの準備はすでに出来ていました。その時、自分のご飯は母の分より多いことに気が付きました。母がいつもよさそうなものや多いものを、自分に与えてくれていることから思ったことは、母親としていつもよいものを子供に与えようとする考えは理解できますが、知らないうちに自分の私心が形成されました。その私心があることによって、他人が自分に優しいこととか、自分のためにしてもらった他人の苦労も、当然で、当たり前だと考えるようになりました。自分はいつも出来上がったものを待っていました。
この考えが正しくないと認識すると、私は自分自身を変えようと思いました。その後、ご飯を食べる時によさそうなものを母に渡しましたが、母にいらないと断られました。その結果、私はまた不機嫌になり、「恨む心」も生じました。「お母さんは、私の私(し)を助長していませんか? 私を害していませんか?」と話しましたが、その後、よく考えてみました。「どういうこと?」、どうして自分には「恨む心」が出たのでしょうか? 内に向けて探しました。母に優しくしてあげたいのは、「私心」であって、心からの優しさではないことに気づきました。自分は私心が生じて、円満成就できないことを怖がっていたからです。やはり、自分のため、私(し)のためだったのです。
類似したことがまたありました。ある日、とても眠くて、眠いのを乗り越えようと思っていましたが、意志が足りませんでした。その時母が、「眠いなら寝た方がいいよ」と何回も言ってくれたので、私は寝ることにしました。しかし、目が覚めた後、本当は自分は睡魔と闘おうと思っていたのに、寝てしまった。それでまた、心から強い「恨む心」が浮かび上がって不平に思い、母が自分を害しているとさえ思いました。自分を寝させたことに非常に怒ってしまい、その時は外に向けて探すばかりで、母を恨むようになりました。しかし、寝たいのは他でもない自分であり、自分の意志が弱かったから寝たのだということを思いませんでした。さらに怖いことには、他の人が皆自分を害しているのだと思うことです。だから誰の話も聞こうとせず、人を馬鹿にしていたので、自分の心より魔が生じたり、「嫉妬心」も現れてきました。
以前に、同修の家に行った時のことです。同修はいつも食べ物を渡してくれ、帰りに持たせてくれていました。最初は、同修から渡されたのを持ち帰っていましたが、次第にこれは利益を求める心であり、「貪欲な心」でもらうべきではないと認識しました。しかし、同修は相変わらず、物をくれていました。時には強制的に渡されるときもあり、私が「いらないよ」と断ったら、「あなたは徳を失うことを恐れているのですか?」と言われました。これを聞いた私は我慢できず、爆発してしまいました。私が「いらないと言っているのに、徳を失うようなことを押し付けてきて、そのような話をするなんて!」と、すぐにまた、「恨む物質」が湧いてきました。内に向けて探してみました。自分が「いらない」と言った時は、他人のために考えているではなく、結局、私の立場から自分のことを考えていることに気づきました。それに、自分が「いらない」と話したとき、機嫌悪そうな表情も現れており、ここでもまた、心の中は自分のことしか考えていませんでした。
これらのことを通して、自分の考え方が正しくないと気づきました。ある執着心の存在が意識でき、正そうと思うと、いつも「私心」から考えてしまい、邪悪の党文化のやり方で対応しています。強制的に変えようとしても内に向けて探さず、すぐに外に向けて探し、「闘争心」と「恨む心」を持ってしまいます。人の意見が自分の考えに合わないとき、怒りがちになったり、機嫌が悪そうになったり、どうしても人が自分を害しているように思ってしまい、考えが一方的になります。
この考え方はとても恐ろしいことです。邪な悟りになりやすいし、修煉の基点を正しく位置付けできておらず、間違っているのに正しいと思い込んでしまいがちです。これからは必ず、修煉の基点を正しく位置付けし、中国共産党の「党文化の考え方」を取り除きたいと思います。
個人の悟りですので不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。