文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年8月27日】同修たちは皆、大法を学び、大法と同化することの重要性を知り、大法と同化して心を修めることこそ本当の修煉だと思っています。しかし最近、私の周りで起こったいくつかの出来事から、大法と同化することに対する修煉者の理解は後天的な観念に左右され、自分の執着を隠すために大法を誤って解釈していることに気づきました。ここで、真に大法と同化することについてお話したいと思います。
事例、一
最近、書道の練習をしている同修がいます。人を救い済度する時間が迫っているこの時期に、同修は書道の練習に多くの時間を費やすべきではありません。書道の手本の一つである『陰符経』は非常に古い本で、道教の経典ですが、この同修はその内容は読まずに書道だけをしている、と言いました。
実は、この類の本をどう理解すればいいか、すでに法の中に啓発があります。『陰符経』は経なので、絶対に持ち帰ってはいけないのです。師父は「『皇帝内経』とか、『性命圭旨』、あるいは『道蔵』の類いも同じです。それらの本には悪い事は書かれていませんが、さまざまな次元の信息が含まれています。それ自身が修煉方法なので、読むと、あなたに入ってしまい、乱れてしまいます」[1] と説かれています。
師父が経について説かれましたので、この問題の重要性は一目瞭然です。 師父の法を通じて私の理解ですが、心は必ず正しくなければならないのです。他の経なら、その形式と内容に関係なく、法の要求に従って我々は触れてはいけないのです。無条件に大法に従って行なうことが本当に大法と同化することになります。想像してみてください。この同修は毎日『陰符経』を見て字を書いているのです。それでも学んでいないと言えますか? 頭に入っていないと言えますか? ここまで書くと、私は自分にもメディアの仕事をするとき、儒教的な内容への執着があったと気がつきました。
事例、二
ある年配の修煉者とその友人は、毎日決まった時間に麻雀で遊ぶことを約束していました。師父は「わたしに麻雀をやってもいいですかと聞く人もいますが、それは賭け事を通じて他人のお金を奪おうとしているのではありませんか? それは賭け事ではありませんか?」[2] と説かれました。師父が大法弟子は麻雀をしてはいけないと戒めてくださっていると思い、私は同修に麻雀をしてはいけないと指摘したとき、同修は「師父が麻雀をしてはいけないと言われたのは、ギャンブルにしがみついてはいけないということです。私はギャンブルをする心を持っていません。わずかなお金をかけることがありますが、勝ち負けにお金をかける心はなく、ただの遊びです」と言いました。
実は上記のような例は、すべて執着心に根ざしたものです。私の個人的な考えですが、法の中にどのように説かれているかを知り、私達は師父に言われていることに従うのです。師父が他の経を読まないようにと教えてくださったなら、私達は他の経典を読んではいけません。麻雀をしてはいけないのなら、私達は麻雀をして遊ばないことです。これこそ大法弟子が大法と同化する正しい道だと思います、師父は「修煉はきわめて苦しく、非常に厳粛なことです。ちょっとでも油断すれば、堕ちてしまい、長い間の努力が一瞬にして台なしになるかも知れないのです。ですから心を必ず正しくもたなければなりません」[1] と説かれました。
個人的な次元に限られているため、自分のために理由を見つけ、大法と同化しないという同修に注意を促すために、この文章を書き出しました。慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪法解』