文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年1月25日】法を正す時期の大法弟子のほとんどが、20数年も修煉した古い弟子です。数多くの同修は邪悪からそれぞれの迫害を受けたことがあります。どんなに荒れ狂う風雨のような迫害に遭ったとしても、揺るぎ無く修煉の道を歩み続け、正念をもって正しく行いながら着実に三つのことを実行しています。全ての揺るぎ無く今日まで歩み続けた同修は、自分の修煉の道において各自の能力を発揮して、異なる自分の次元と心性の高さを顕しました。当面のこの情勢下で「迫害はいつ終わるの?」とそのような執着心を持っている同修も一部います。
ある同修は「迫害はいつ終わるのか?」と考えています。ある同修は「自分はいつ円満出来るのか?」と考えています。精進している人、していない人、修めているかどうか分からない人に関わらず、みな修煉の終結を待ち望んでいるため、一つの大きな執着が形成されたのです。特に2002年、師父が『北米巡回説法』の中で仰いました。「皆さんにお聞きしますが、もし衆生を救い済度することがまだ10年かかるのであれば、皆さんはやりますか?(学習者は口をそろえて、『やります!』と答えた)(拍手)これこそ大法弟子です」[1]この説法を読んで、私は時間を計算し始めました。遅くても2012年、その年になれば必ず終わるのだと考えました。
私は感激しながら常人の家族に「2012年になれば、迫害は終わるのだ」と話していました。ここ10年間、常に自分の傍では誰かが「修煉は間もなく終わるのだ」と話しています。地元の天目が開いた同修は「間もなく終わります。何月何日に終わります」等々と話していました。このような話を聞いたみんなは浮き浮きし始め、着実に修煉に専念できずにいます。しかし毎回、期待が裏切られます。師父が仰った時間だけが正しいと考えました。しかし、現在もまだ終わっていません。常人の家族は私のことをあざ笑い、人を救うことに支障をきたし、自分も気落ちしました。
今回の教訓を経て、もう時間に執着してはならないのだと認識しました。なぜ、こんなに終結の時間に執着しているのかについて深く掘り下げてみました。なぜなら、困難にぶつかった時に、妨害に遭遇した時に、危険に晒されている時に、更に安逸心が現れた時に、逃避したくなり、早く終結することを望むからです。
私達の修煉は師父が手取り足取り教えてくださいました。親が子供に歩くことを教えるように、子供がまだ様々な状況に対応できない時、親は子供に「歩き続けよう、もっと速く歩こう、もう少し歩けばつくよ」と励ましていくうちに子供が一歩ずつ歩けるようになるのと同じです。
1999年に迫害が始まって、非常に厳重な状況下で、多くの同修は法を得たばかりでした。このような突如襲ってきた迫害に遭い、どうすれば良いのか分からず途方にくれました。その時、慈悲深い師父が私達に説法をされました。大法弟子の本性を啓発し、大法弟子が法を正す時期の大法弟子になるようにと説かれました。師父は「目覚めて悟った本性は、自らいかに振舞うかを知っているはずです」[2]と仰いました。しかし、まだ人心を帯びていた大法弟子は、師父が説かれた法の表面の法理と師父の激励しか理解しませんでした。この先の道はどれほど険しいのかについて、気付くことができません。そうでなければ、大勢の人が修煉を堅持することが出来なくなるからです。慈悲なる師父は私達のために大変苦労をなさいました。私達が円満成就できるまで、時々刻々私達が前へ進めるようにご加護されています。
「時間に執着する」その心が無くなったことを感じた
ある日、同修と交流の中で「もし、修煉がまだ30年、50年、或いは一生の時間がかかるなら、あなたはどうする?」と同修が私に聞きました。私の心は誰かにぎゅっと掴まれたかのように、心が一瞬空っぽになりました。その時、自分の反応はまず「そんなにかからないでしょう?」でした。「なぜ自分の内心が辛く感じたのだろう? なぜ脱力感を感じたのだろう?」と自分に問いかけました。それは同修の言葉が、私の時間に執着する心に触れたからです。自分のその執着心がまだ完全に取り除かれていない顕れです。「もし、本当に同修の言うようであれば、私は修煉を辞めるのだろうか?」と自分に問いかけてみました。「今日終われば、今日師父について帰ります。もし明日終われば、私は明日師父に付いて帰ります。もし本当に一生かけても終わらないのなら、私は一生を費やして圓満成就して師父に付いて帰ります」私の答えははっきりしていたのでした。
たちどころに私はこの執着を放下することが出来ました。真に放下することが出来ました。私は悟りました。自分は修煉の道を選び、しかも宇宙の全てを創り上げた大法を既に得たのですから、まだ終結する時間にこだわって、何の意味があるのでしょうか?
終結するその時間にもう私の心は動じない
ここで皆様にも、自分に「もし修煉はあと30年、50年、ひいては一生かかるのなら、このまま続けますか?」と、自問してみる事を提案します。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『北米での巡回説法』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道法」