「子供は庶民である」について
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文/盛紫

 【明慧日本2021年5月13日】これは、南北朝時代に「顔氏家訓」の著者である顔之推が語った言葉です。最初この言葉を聞いた時、思わず身体が震えてしまい、その状態でギャップを感じました。私は20年以上修煉してきましたが、子供に対する情をきれいに修めていません。しかし何と言っても、情に縛られてはならないということを完全に悟ったと感じました。

 私がまだ修煉していなかった時は、情がとても重く、両親や、子供、親戚や友達等のことが気になって仕方がなく、心配が尽きませんでした。大法を修煉してから分かりましたが、情の中でもがいていて自分で自分を苦しめることであり、情は良いものではなく、余計なものなので、必ず取り除くべきです。家族は「宿」に集まった一時的な仲間にすぎず、誰もが自分の人生の道を持っています。人々がどのように計算しても、あるべき福はもらえるし、遭遇すべき災難からは逃れられることは出来ません。子供に良いことがあれば、それは前世で徳を積み重ねた結果であり、悪いことがあれば、業を返すことであり、公平です。もしあなたが何かを変えようとすれば、それは神の按排を変えるようなことであり、それは不可能なことです。

 師父は「人は各自運命があり、誰も他人を左右することはできません。あなたの身内も、この世ではあなたの身内であっても、来世では他人の身内になるかもしれず、前世でも他人の身内だったのかもしれません。人は各自運命を持っているため、誰をどうしようとしても、どうしようもありません。人の生命は人によって按排されるのではなく、神によって按排されているからです」[1]と説かれました。

 情を放棄できる源は法を学んで法を得ることであり、法を学ぶことが法を得ることではありません。

 法を得てからこそ全ての執着心を取り除く威力を持つことができ、執着から飛び出る感覚を覚えられます。その時、複雑な情の糸と観念はまるで一つ一つの小さい山のように一瞬にして崩壊され、眼前が広々とし、心が明るくなります。自分の子供を庶民と見なすことができるとは、修煉者の広い度量と酌然としたものがあり、心配で疲かれたり、心配して苦しんだり、寒暖の心配もありません。自分の子供を庶民の1人としてみなし、その淡々とした心は軽やかなものです。

 時々、仕事で忙しくしている子供たちを見て、私は思いました。人間になることは本当に難しく、迷いの中で頑張っても、いつ終わるのでしょうか? あなたは何を持ち去ることができるでしょうか? 来世のあなたは誰でしょうか? しかし、考えることはいいことで、彼らに善を以って接し、彼らのために考え、喜んで自分を犠牲にし、代価も見返りも求めず、この現れは情を超えた高尚なものです。昔、城隍庙(城隍神を祭祀する為の廟所)にかけられていた対聯を思い出しました。「子供は借りであり、借りがあれば返し 借りがあるからやって来るのです。夫婦は縁によるもので、善縁があれば悪縁もあり、縁がなければ夫婦にはなりません」。そうである以上、また何に執着するのですか?

 私には一つの体験があります。子供がいくら良くなくても、自分自身を探すべきです。あなたがそれを手放すのが速ければ速いほど、子供の変化も大きく、あなたがそれを手放すのが遅ければ遅いほど子供の変化も小さくなります。あまりにも遅ければ子供は大法との縁を遅らせることになります。

 時に同修に会うと、家庭での悲しいことや、子供たちがどうだ、主人がどうだなどの話を聞くことがあります。中には目に涙をためている同修もいます。 手放していないから苦しいのです。手放して見たらどうでしょうか。師父は必ず私たちの面倒を見てくださいます。すべてを師父にお任せすれば、放下できない心などあるでしょうか。

 時々息子に会うと、優しく感じると同時に馴染みのない気がします。私の意識の中には、彼は遠い昔から私と手をつないで今日まで歩いて来たのは法の縁であり、法を得るために我が家にやって来たという一念があります。彼の人生の道は師父によって方向が変えられています。なぜなら彼が良い方向に急速に変化しているからであり、この良い方向への変化は私とは何の関係もありません。

 僅かな個人の体験です。合掌。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『ヒューストン法会での説法』

【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/6/421633.html)
 
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